象の首飾り
【第31話】
「タビビさん?」
「いいえ、『多』は忘れてください。『毘毘』と」
「毘毘さん」
「はい」
彼女はみじんも表情を変えない。
凄絶な美人だが、親しみやすさとは無縁な様子だ。
「ええと、新しく善見城へ来た方ですか?」
「いいえ。わたしは北天の者です」
(やっぱり初対面だよね。どうしてわたしを知っているんだろう)
咲千は南天の増長天、東天の持国天、西天の広目天とは面識があるが、北天の神や人とは誰とも会ったことがなかった。
それなのに、彼女はまったく気にする素振りを見せず話を続ける。
「あなたにこれを渡します」
じゃら、と音を立てて、咲千の目の前に燻した金属の飾りがぶら下げられた。
「なんですか、これ」
「主の首飾りです」
「えっ」
驚いてそれを凝視する。
銀を燻した鎖に、トップには象のチャームがついたペンダントだった。
以前咲千が死にかけたとき、清浄な力を送ってくれた代物だ。
「どうして、あなたがこれを?」
訝しげに見上げると、彼女はさらりと言う。
「わたしからではありません。主からです」
「主……って、帝釈天さまですよね?」
「はい。帝釈天さまに言われて、あなたにこれを渡しています」
「?」
難しいことを言われているわけではないのに、理解ができない。
だというのに、毘毘はすっと距離を詰めてきた。
「つけましょうか」
「え?」
「この首飾りをあなたにつけるお手伝いをしましょうかとお尋ねしました」
(この人はなにを言ってるの? 天然なの? それとも不思議ちゃん?)
混乱で目が回りそうだ。
彼女は構わず首飾りの留め金を外し、咲千の首へ手を回そうとしてきた。
「待ってください、自分でできます」
慌てて彼女の手を止めると、その流れで首飾りを手渡された。
「たしかにお渡ししました。ではわたしはこれで」
去り際はあっさりと、見知らぬ人のようなそっけなさで横をすり抜けて行ってしまう。
走っているわけでもないのに、彼女の背はあっという間に見えなくなった。
(狐にでも化かされたのかな……?)
あまりに不可思議で、もしかしたら現実ではなかったような気がしてしまう。
帝釈天の部屋から出てきた初対面の天女が、咲千のことを知っていた。
しかも、彼女は帝釈天の首飾りを持っていて、それを咲千に渡してきた。
(象のペンダント……、たしかに帝釈天さまのものだわ)
見覚えがあるから、これが偽物だとか疑うつもりはない。
ただ単に、解せない。
新しくお気に入りになった天女に、帝釈天がこれをプレゼントした、とかならまだ納得できるのに。
(謎すぎる)
首飾りを握りしめたまま、咲千は頭を抱えた。
このまま部屋へ戻ったとしても、混乱から抜け出せる気がしない。
(やっぱり、確かめたい)
殊勝院は目と鼻の先だ。
今しがた不思議天女が出てきたということは、中に帝釈天はいるのだろう。
(ノックしてみようか)
呼ばれてもいないのに自分から会いにくるなんてどうかしている。
常識的にはそう思えるが、ここまで来たんだからいっそ振り切ってしまえと鼓舞する自分もいる。
(どうせここで引き返しても、五十歩百歩じゃない?)
行くか帰るかせめぎ合う中、どちらかといえば、このまま進んでしまおうという意見が優勢だった。
(結局わたしは……会いたいのかも)
ぽつんと、単純な願いが心に浮かぶ。
そして、それが一番すとんと納得した。
(理由なんてどうでもよくて。帝釈天さまと会って、話がしたい)
そうと決まれば早い。
咲千は殊勝院の立派な扉の前に立って、ノックのための手を振り上げた。
そのときだった。
いきなり前触れもなく、内側から扉が開く。
「……っ!」
このときの咲千は、オリンピック選手並みの反射神経だったと思う。
目前に迫る硬い扉に顔をぶつけるすれすれで、背後へ素早く飛びのいた。
けれどやはり着地はかなわず、そのまま背後へ転倒し、尻をしたたかに打ちつける。
「痛あ!」
「なぜお前」
降ってきた声は帝釈天のものだ。
はっとして見上げると、清浄な輝きを放つ瞳を丸くする彼と視線が交差する。
(帝釈天さま……)
お尻の痛みを忘れ、しばしその瞳に魅入られる。
だが、帝釈天のほうはすぐさま動いた。
周囲に鋭い視線を走らせるなり、強い力で咲千の袖を摑む。
あっという間に部屋へ引きずり込んで、素早く扉を閉めた。
気づけば咲千は、帝釈天の胸に抱きしめられている。
藤と蓮を混ぜたような爽やかで心地よい香りに包まれて、なんだか頭がぼうっとしそうになった。
(でも、これ……)
頬に当たる硬い感触に、はっとする。
彼は柔らかな衣の内側に鎧をつけていた。まるで戦にでも出るようだ。
「俺は呼んでいないぞ」
誰かに言い訳するように、彼は言った。
(知ってる。歓迎されていないことくらい)
なのに、こうやってぎゅっとハグなんてしてくるから、陶酔感でわけがわからなくなる。
このまま縋りついてしまいたい衝動に駆られるものの、なけなしの理性を振り絞った。
なんとか両手をつっぱり、彼の拘束から逃れて顔を上げる。
「初めてお会いする方から、これをいただきました」
握り締めてきた手を開き、首飾りを見せる。
帝釈天は軽く首を横に振った。
「違う。俺からだ」
「わかっています。だから持ってきたんです」
手を差し出して、彼へ押しつける。
「お返しします」




