貞操の危機
【第16話】
帝釈天は足取り軽く、咲千を抱えて進んでいく。
(寝所……しんじょってなんだっけ)
あまりの事態に頭の中は真っ白だ。
やがて足が止まったと思ったら、立派な扉の部屋へ連れ込まれる。
ここにきて、ようやく咲千の思考が少しずつ戻ってきた。
(待って、まずくない?)
そうこうしているあいだに、豪華な寝台へ下ろされる。
ぎしりと軋む音が妙にリアルで、背筋がぞっとした。
(これ、貞操の危機的なやつ!)
「ああああの、あの、あの……っ」
「なんだ?」
「わわわわたしには無理ですっ」
「なにが無理なのだ?」
帝釈天は美麗な顔を寄せてくる。
彼の瞳はびっくりするほど清浄な光をとどめていて、このおかしな状況と似つかわしくない。
無体なことを強いようとしているとは思えないのだった。
とはいえ、神サマの心理なんて元人間にはまるでわからない。
相手が興奮する前になんとか逃げなくては。
万が一力で押さえつけられたら、絶対に敵わないのだから。
下手に刺激せず、穏便に、なんとか諦めてもらおう。
一生懸命説得を試みる。
「わたしなんてやめておいたほうがいいです。容姿だって十人並みだし、身体つきもいたって普通だし、こういう経験もないから多分マグロだし、ぜんっぜん楽しくないと思います」
「マグロ? お前はシャチだっただろう」
「いや、魚の話じゃなくてですね……」
「シャチは魚ではない」
「そこを真面目に突っ込まないでもらえます?」
いったいどういう状況なのか、意味不明になってきた。
「では、なんの話だ」
「ですから、わたしじゃなくて他を当たってもらいたいんです」
「他? いやお前がいい」
帝釈天は新しいおもちゃを見つけた犬のような目でじっと見つめてくる。
「なんでわたしなんですか!? 綺麗な天女はたくさんいるのに」
咲千のどこにそんな執着される要素があるのだろう。
「四十九万四千九百」
「は?」
いきなり大きな数字を持ち出されて、訊き返す。
「天女の数だ。七万七百の部屋に七人ずついるから、合わせて四十九万四千九百」
「多すぎっ」
「多くはない。五十六億七千万年も城に引きこもっている弥勒菩薩さまの天女の数はその比ではないと聞く」
「いやもう、頭が数字でいっぱいです……」
陸に打ち上げられた魚のごとく目を剥いて、口をぱくぱくさせた。
そんな咲千を見て、帝釈天はおおらかに笑いだす。
「お前は本当に面白いな。いじりがいがある」
「いじり?」
もしかして、これまでの行動は新人いびりの一環だったのだろうか。
(朝からずっと、わたしをからかって楽しんでいたの?)
かわいいだの、匂いを嗅がせろだの、抱き枕だの。
いちいちドキッとしたり、慌てたり、感情が振り回された。
それは全部、神サマの退屈しのぎの気まぐれだったというわけか。
(なんかすごく……もやもやしてきた)
ぐぐっと拳を握りしめる。
すると、力を入れたはずなのに、すうっと意識が遠ざかるような心地がした。
(あれ?)
なんだか視界が定まらない。
今のうちに起き上がって寝台を降りるべきだと思うのに、身体が言うことを聞かなかった。
動かないのだ。
(力が抜ける……)
飢餓感に近い感覚が襲ってくる。
まぶたを閉じたら、永遠に戻ってこられないような気がした。
「シャチ」
真顔になった帝釈天が、手を差し伸べてくる。
けれども、咲千の視界はそこで暗転した――。
しばらくして、咲千はぽっかりと目を覚ました。
辺りには、お寺で嗅ぐ線香のような香りが満ちている。
(わたし……どうしたんだっけ)
身を起こそうとして、なにかが胸の上から滑り落ちた。
(ペンダント?)
とっさに拾い上げてみる。
燻した金属のチェーンがついた首飾りで、トップには動物のチャームがついている。
丸い顔に四角い耳、長い鼻、愛嬌のあるつぶらな瞳……。
「象?」
さらに体の部分には、上に小さな丸が二つ、下に波模様に似た曲線が書かれた梵字が一文字彫ってある。
「シャチ、起きたのか」
「!」
突然聞こえた低音に、びくりと身体を震わせる。
帝釈天だった。
急激に先ほどまでの記憶がよみがえってくる。
(そうだ、わたしは帝釈天さまの部屋に連れ込まれて、ベッドの上で気を失って……って、ええ!? それって、まさか……事後!?)
怖ろしい展開を想像して、凍りつく。
しかし、降ってくる帝釈天の声とまなざしは、慈愛に満ちたものだった。
「大丈夫か? まだ寝ていたらいい。具合の悪いところはあるか?」
(心配してくれてる? 着衣も乱れていないし、なにもされていないみたいね……?)
この身に悪さをしたとは思えない彼の雰囲気に、こわばっていた身体の力が抜ける。
「あの、わたし……?」
「死にかけた。悪かったな、俺がからかいすぎたせいだ」
「へ? 死にかけ?」
とんでもないことを言われて目を剥く。
「きっとお前、俺にムカついたのだろう? 危うく憤死するところだったようだ」
(憤死ってぷんすか怒りすぎて死ぬやつ? 日本史で習った崇徳上皇とかみたい)
「天女は負の感情や穢れにめっぽう弱い生き物だからな。以後気をつけろ」
「はい、気をつけます……?」
(って、え? わたしが謝るところ? 違くない?)
咲千を怒らせた帝釈天に問題があるはずなのだが。
「俺も次はさじ加減を間違えず適度にいじるようにする」
「いじらなくて結構です」
「俺の楽しみを潰す気か。却下だ」
「いやいや、わたしの命がかかっていますからね……」
しょうもない問答を続けながら、なんだか気が抜けてしまった。
この上司は鬼畜でセクハラでどうしようもない神サマだが、どこか憎めないのだった。




