俺は何もやましい事はしていない!
「……行きます?」
晃星がそう聞くと、奈緒は開いた扉の奥を見た。
真っ暗な旧校舎。
誰かがいるのか。
それとも、ただ鍵が開いていただけなのか。
「……い、行く」
「本当に?」
「……行く」
声は震えている。
晃星は苦笑した。
「じゃあ」
懐中電灯を灯す。
パッ。
細い光が、真っ暗な廊下を照らした。
「行きましょうか」
「……うん」
晃星が一歩。
奈緒も一歩。
恐る恐る旧校舎の中へ入っていく。
ギシッ。
古い床が軋んだ。
「ひっ……」
奈緒の手に力が入る。
「大丈夫ですって」
「う、うん……」
二人はゆっくりと廊下を進んでいく。
晃星の腕には、奈緒がぴったりとくっついていた。
柔らかい感触。
そして。
ふわっと鼻をくすぐる、奈緒のいい香り。
――……あれ?
――これ、めっちゃいい。
晃星は一瞬、そう思った。
その時。
頭の中に伊織の声が浮かぶ。
――イチャイチャすんなよ!
続いて。
月姫の顔も浮かんだ。
――デレデレしないでね?
「……」
晃星は心の中で反論する。
――いやいや。
俺はイチャイチャなんかしてない。
これは奈緒先輩が怖くて俺の腕を掴んでいるだけだ。
俺から何かしたわけじゃない。
――デレデレもしていない。
奈緒先輩を不安にさせないように笑顔でいるだけだ。
俺はイチャイチャもしてないし、デレデレもしていない!
……ただ、悪くはない。いや、これはいい。
晃星は何事もなかったように、懐中電灯を前へ向けた。
「なんか……何もなさそうですけどね」
「そ、そうだね……」
二人はゆっくりと音楽室へ向かって歩き出す。
その時。
ザワァァァ……。
外の木々が風に揺れる音が、静かな旧校舎に響いた。
「ひゃぁぁぁっ!!」
ぎゅっ!
奈緒がさらに晃星へくっついてくる。
「うおっ!?」
晃星は一瞬。
――うん! もっと風吹け。
そう思った。
しかし。
奈緒の顔を見る。
「……」
顔面蒼白だった。
「……いやいや、ヤバいじゃん」
晃星は我に返る。
「奈緒先輩、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……」
「いや、大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫!」
「めっちゃ震えてますけど」
「震えてない!」
「震えてるって!」
奈緒は晃星の腕を掴んだまま、廊下の先を見る。
「……奈緒先輩」
「なに……?」
「一回戻って待っててもいいですよ?」
奈緒が入口の方を見る。
一人で。
この旧校舎に残る。
「……」
想像する。
「……いや」
晃星を見る。
「一人で待つのも……」
「ですよね」
奈緒は完全に詰んでいた。
晃星と一緒に進んでも怖い。
一人で戻っても怖い。
「……どうします?」
「……行く」
「本当に?」
「……行く」
その声は全く強がれていなかった。
晃星は苦笑する。
「じゃあ、ゆっくり行きましょうか」
「……うん」
二人は再び歩き出した。
懐中電灯が照らす先。
音楽室までは、もう少し。
その時だった。
「……」
晃星が足を止める。
「奈緒先輩」
「……なに?」
「今……なんか」
晃星は音楽室の方を見る。
「人の気配、しませんでした?」
「……っ」
奈緒の身体が固まる。
「……え?」
「いや、気のせいかもしれないですけど」
「……」
静かな廊下。
古い建物の軋む音。
遠くで鳴る風の音。
そして。
音楽室の方から。
誰かがいるような。
そんな気配。
「……あきくん」
奈緒が小さく呟く。
その瞬間。
奈緒の膝から力が抜けた。
「ひっ……」
「奈緒先輩!?」
その場に。
ぺたんと座り込む。
「む、無理……」
「え?」
「む、無理無理……」
「ちょっ、奈緒先輩!」
奈緒はもう立ち上がれなかった。
恐怖のあまり。
完全に腰を抜かしてしまった。
「……あきくん」
奈緒が小さく呟く。
その瞬間。
奈緒の膝から力が抜けた。
「ひっ……」
「奈緒先輩!?」
その場に、ぺたんと座り込む。
「む、無理……」
「え?」
「む、無理無理……」
「ちょっ、大丈夫!?」
晃星は慌てて奈緒の前にしゃがみ込んだ。
「立てます?」
「……むり」
奈緒は青ざめた顔で、小さく首を横に振る。
その時だった。
ザワァァァ……。
再び外の木々が風に揺れる音が、旧校舎の中に響いた。
「ひっ……!」
ぎゅっ!!
恐怖に耐えきれなくなった奈緒が、反射的に晃星へしがみついてきた。
「お、おっと」
晃星も奈緒を支えるように、その身体を抱きとめる。
奈緒は晃星の胸に顔を埋め、ぎゅっと服を掴んだまま離れようとしない。
「大丈夫、大丈夫」
晃星は奈緒の背中をゆっくりと摩る。
「はいはい、大丈夫大丈夫」
子供をあやすように、優しく声をかける。
「なんかあっても、俺がそばにいるから大丈夫ですって」
「……」
奈緒は顔を埋めたまま、上を向けない。
「……あきくん」
「ん?」
「あきくん……」
晃星は特に気にした様子もなく答える。
「あー、俺の名前呼びにくいんでしょ?」
奈緒が少しだけ顔を上げた。
「……え?」
「別にそれでいいですよ」
晃星は笑う。
「あきくんって呼びやすいなら、それで」
「……いいの?」
「全然」
晃星は当たり前のように答えた。
「呼びやすい呼び方でいいっすよ」
その言葉に奈緒は、少しだけ安心したように再び晃星の胸元に顔を寄せた。
「……あきくん」
「はいはい。いますよ」
まだ怖がってはいる。
けれど。
さっきよりは少し落ち着いているようだった。
晃星はそんな奈緒を見て、ふと思いつく。
「じゃあさ」
「……なに?」
「俺の秘密の話、聞きますか?」
「秘密?」
奈緒が晃星の胸元から、少しだけ顔を上げる。
「はい。怖いこと考えてるより、別の話してた方がいいかなと思って」
「……うん」
「じゃあまずですね」
晃星は少し懐かしそうに笑った。
「俺、昔、高校行けるかどうか悩んでた時があって」
「うん」
「その時、高校行こうと思ったキッカケの一つに、一個上の女子高生の子が関係してるんです」
「……へぇ」
「その子、大人しい子で、なんか弱々しそうなのにスカートの丈が短かったんですよ」
奈緒の表情が、ぴくっと動く。
「いや、あれは衝撃でしたよ」
晃星はケラケラと笑った。
「大人しい子なのにスカート短いの!?って」
「それで高校行ったら、そんな子と出会えるかもしれないなーって思って」
「……」
「もしそんな子と付き合ったら、大人しいのに俺にデレてくるとか最高だなって!」
「あはは!」
晃星は楽しそうに笑う。
「……あきくん」
「ん?」
「高校受験を決めた理由、それ?」
「いや、もちろんそれだけじゃないですよ!」
晃星も笑った。
「でも、キッカケの一つではあります!」
奈緒は呆れたように、でも少し笑った。
さっきまで恐怖で動けなかったことを、少しずつ忘れ始めていた。
「で、しかもですね!」
晃星は楽しそうに続ける。
「名前も奈緒先輩と一緒なの!」
「……え?」
奈緒の目が少し大きくなる。
「奈緒ちゃんって呼んでたんですけど」
「……」
「なんか先輩と雰囲気似てるんですよね」
奈緒が晃星を見つめる。
「でも奈緒ちゃん、めっちゃ内気で知らない人に話せないし」
「……」
「奈緒先輩みたいに率先して何かやるタイプに見えないし
「……」
「それに」
晃星は思い出したように笑う。
「奈緒ちゃん、ぺちゃんこだったから」
「……っ!」
「奈緒先輩のスタイルには程遠い感じだったなー!」
「もうっ!」
奈緒が思わず声を上げる。
晃星はケラケラと笑った。
「だから、雰囲気は似てるけど別人ですね!」
「……」
奈緒は何とも言えない顔で晃星を見つめた。
――あきくん。
――それ、同一人物です。
心の中でそう呟く。
この一年で。
性格も、体も。
確かに成長したという自負はある。
だからこそ。
目の前のあきくんが一年前の自分のことを、まるで別人のように話しているのが可笑しくて。
そして少しだけ恥ずかしい。
――……私なんだけどなぁ。
そう思いながらも。
奈緒は、あえて何も言わなかった。
気づけば。
さっきまで奈緒を支配していた恐怖は。
晃星のどうでもいい秘密の話によって、すっかり薄れていた。




