気持ちの芽生え
「……どうしよう」
奈緒は体育館を見上げながら、小さく呟いた。
お姉ちゃんがいるのは分かっている。今日、試合があることも。朝のことを謝って、ちゃんとお守りを渡したくてここまで来た。
でも、どうやって中に入ればいいのか分からなかった。
正面の入口には、応援に来た人や保護者らしい人たちが大勢いる。人の流れも途切れない。
奈緒はその様子を見つめながら、さっきのことを思い出していた。
人に声をかけても聞こえなくて。押されて。邪魔だと言われて。
呼吸も浅くなって、顔から血の気が引いていった。
もう一度、あの人混みの中に入るのは怖かった。
「んー……どっから行こうかな」
隣では男の子が体育館の周りを見回していた。腕を組みながら、入れそうな場所を探している。
奈緒はそんな男の子の横顔を見つめた。
――なんで。
なんで、この子はこんなに親切にしてくれるんだろう。
今日初めて会ったばかりなのに、水まで買ってきてくれて、お姉ちゃんに会う方法まで一緒に考えてくれている。
奈緒だったら、困っている人を見つけてもすぐには声をかけられない。
迷惑じゃないかな。
変に思われないかな。
ちゃんと話せるかな。
いろんなことを考えてしまう。
それに奈緒は、人と話すのも苦手だった。
伝えたいことがあるのに、いざ相手を前にすると言葉が出てこなくなる。何を話せばいいのか分からなくなって、相手を待たせてしまう。
そして、困った顔をされる。
少しずつ相手がイライラしていくのが分かる。
「何が言いたいの?」
「もういいよ」
そんなふうに言われたこともあった。
だから、話しかけること自体が少し怖かった。
なのに、この子は違う。
奈緒が困っていたら迷うことなく声をかけて、当たり前のように手を差し伸べてくれた。
――すごいなぁ。
自分も、こんなふうになれたらいいのに。
奈緒がそんなことを考えていると、男の子がふと奈緒を見る。
「あ」
「……?」
「奈緒ちゃん、それ高校の制服だよね?」
「うん」
男の子は奈緒を見て、にこっと笑った。
「かわいい」
「……っ!?」
奈緒の動きが止まる。
何か言わなきゃ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
顔だけがみるみる赤くなっていく。
「……あ、ありがとう」
やっと、それだけ言えた。
すると男の子は奈緒の制服を改めて見て、楽しそうに笑った。
「いや、奈緒ちゃん大人しそうなのにスカート短いってのが、尚更かわいいんだよなぁ」
「……っ!」
奈緒の顔がさらに赤くなる。
思わず自分のスカートの方を見てしまった。
すると、友達の一人が呆れたように言う。
「いや、お前の女子高生に対する好み聞いてないけど」
「え?」
男の子が振り返る。
「いや、でもさ」
奈緒をちらっと見て、楽しそうに笑った。
「そんな子が二人の時だけデレてくるとか最高じゃん!」
一瞬、友達二人が顔を見合わせる。
「うん、それはそう」
「それは同感」
「だろ!?」
なぜか三人だけで盛り上がる。
奈緒は何の話をされているのか分かって、ますます顔を赤くした。
何か言いたい。
でも、恥ずかしくて言い返せない。
ただ俯くことしかできなかった。
すると男の子が、ふと体育館の方を見る。
「あ」
「……?」
「高校の制服着てるならさ」
体育館の反対側を指差す。
「あっちの入り口から入れねえかな」
奈緒もその方向を見る。
「あ……!」
正面の一般客用とは違う。選手や学校関係者が出入りしている、奈緒の高校側の入口だった。
「それは確かに!!」
奈緒の顔がぱっと明るくなる。
「でしょ?」
「そっちなら、お姉ちゃんのいるところに近いかも!」
「じゃあ行ってみようぜ!」
四人は、体育館の横を回り込んでいった。
「あった!」
奈緒が少し嬉しそうに声を上げる。
けれど、入り口の近くまで来たところで、その表情が曇った。
「……人、いっぱい」
そこにも大勢の人が集まっていた。応援団らしい生徒や保護者、学校関係者らしき人たちが入り口の周辺を行き来している。
奈緒は思わず足を止めた。
さっきのことが頭をよぎる。
人に押されて、声をかけても聞こえなくて、邪魔だと言われた。
またあの中に入ったら。
そう考えるだけで、少し息が詰まる。
そんな奈緒を見て、晃星が隣に立った。
「奈緒ちゃん」
「……?」
「行こ」
「え?」
晃星はそう言うと、奈緒の手を取った。
「……っ!」
突然のことに奈緒は目を丸くする。
けれど晃星は気にする様子もなく、そのまま人混みへ向かって歩き出した。
「すいませーん!」
大きな声を上げる。
「関係者なんで、ちょっと通りまーす!」
「えっ!?」
奈緒が慌てて晃星を見る。
「か、関係者……?」
「まあまあ!」
「え、でも……!」
「すいませーん! ちょっと通りまーす!」
晃星は奈緒の手を引いたまま、人と人の間を掻き分けて進んでいく。
「失礼しまーす!」
「ごめんなさーい!」
奈緒が人にぶつかりそうになると、晃星が前に出る。
「こっち!」
「……うん!」
さっきまで、あんなに怖かった人混み。
押されて。
声をかけても聞こえなくて。
邪魔だと言われて。
息が苦しくなった。
なのに。
今は不思議と怖くなかった。
晃星が前にいる。
手を引いてくれている。
ただそれだけなのに。
奈緒は晃星の後ろをついて歩けた。
やがて、人混みを抜ける。
「入れた!」
晃星が振り返って笑った。
奈緒も少し遅れて中へ入る。
そこからは、体育館のコート周辺がよく見えた。
ユニフォーム姿の選手たちが、試合に向けて準備をしている。
「お姉ちゃんいる?」
晃星が尋ねる。
「うん……」
奈緒は中を見回した。
一人。
また一人。
選手たちの姿を探していく。
「あの人?」
晃星も一緒になって探す。
「違う」
「じゃあ、あっち?」
「……違う」
奈緒はさらに奥へ視線を向けた。
すると。
「あ……」
一人の女子生徒の姿が目に入る。
仲間と話している。
見間違えるはずがない。
「……いた」
「ほんと?」
奈緒の表情がぱっと明るくなる。
「あっ……!」
そして、思わず一歩前へ出た。
「お姉ちゃん!」
その声に、女子生徒が振り返る。
「……奈緒?」
奈緒はぎゅっと、お守りを握りしめた。
ようやく。
お姉ちゃんを見つけた。
「お姉ちゃん!」
奈緒の声に、コートの近くで仲間と話していた女子生徒が振り返った。
「……奈緒?」
真央は一瞬、驚いたような顔をする。
「なんでここに……?」
奈緒は少しだけ足を止めた。
さっきまでずっと握っていたお守りを、ぎゅっと握り直す。
「あの……」
言葉が詰まる。
何から話せばいいのか分からない。
朝のこと。
応援に来ないと言ったこと。
お姉ちゃんにきつい言い方をしてしまったこと。
いろんなことが頭の中に浮かんで。
また、言葉が出てこなくなる。
「奈緒?」
真央が少し心配そうに近づく。
奈緒は俯いたまま、小さな声を絞り出した。
「……朝は、ごめんなさい」
「え?」
「私……あんな言い方するつもりじゃなかったの」
奈緒はお守りを握ったまま続ける。
「お姉ちゃんの試合、別に見たくなかったわけじゃなくて……」
「……」
「ただ……人が多いところ、苦手で」
そこまで言うと、奈緒は唇を噛んだ。
「でも……」
ゆっくりと顔を上げる。
「やっぱり、お姉ちゃんのこと応援したくて」
そう言って。
握っていたお守りを差し出した。
「これ……」
真央が受け取る。
「お守り?」
「うん」
「今日、勝てるようにって……」
真央は手のひらに乗ったお守りを見つめた。
少しだけ。
目を丸くして。
それから、ふっと笑った。
「奈緒……」
「……」
「私もごめん」
奈緒が顔を上げる。
「え?」
「奈緒が人混み苦手なの知ってたのに」
真央は少し申し訳なさそうに笑った。
「一緒に来てくれるのが当たり前みたいに思ってた」
「……お姉ちゃん」
「奈緒の気持ち、ちゃんと聞いてあげればよかった」
真央は奈緒を見る。
「ごめんね」
奈緒の目が少し潤む。
「……ううん」
首を横に振る。
「私も……ちゃんと言えばよかった」
「うん」
「ごめんなさい」
「うん」
真央は笑った。
奈緒も。
少しだけ笑った。
朝からずっと胸の中に残っていたものが。
ゆっくり溶けていくような気がした。
「ありがとう」
真央はお守りをぎゅっと握る。
「これ持って頑張るね」
「……うん」
「絶対、勝つから」
「頑張って」
奈緒がそう言うと。
真央は嬉しそうに笑った。
「任せて」
その時。
真央は奈緒の隣に立っている男の子に気づいた。
「あれ?」
「……?」
「奈緒、その子は?」
奈緒が男の子を見る。
「あ……」
少し言葉に詰まる。
「えっと……」
男の子が軽く手を上げた。
「どうも!」
「この子が……助けてくれて」
「助けてくれた?」
「うん。私が……困ってた時に」
真央は男の子を見る。
そして、すぐに頭を下げた。
「そうだったんだ。本当にありがとうございます」
「いやいや!」
男の子は笑いながら手を振る。
「友達なんで!」
「……友達?」
真央が奈緒を見る。
奈緒は少し恥ずかしそうに。
「……うん」
と頷いた。
真央はその様子を見て、ふっと笑う。
「そっか」
そして体育館の中を見回した。
「あ、そうだ」
「?」
「こっちの応援席の方なら、まだ空いてるところあると思う」
真央が指差した先には、コートがよく見える応援席があった。
「そこで見ててよ」
奈緒の表情が明るくなる。
「……いいの?」
「もちろん」
真央は笑った。
「せっかく来てくれたんだから」
奈緒はもう一度、お姉ちゃんを見た。
「……うん!」
「じゃあ、試合終わったらまたね」
「うん。頑張ってね」
「任せて!」
真央はお守りを握ったまま、仲間たちのところへ戻っていった。
奈緒は胸の重たさが無くなったことに気づく。
隣で笑う男の子を見て、胸の鼓動が速くなった事にも。




