柔らかさと香水の香り
放課後。
球技大会の準備で、俺と天川さんは教室に残っていた。
「これ、二年生の分だよね?」
「そう。そっちは一年」
「了解」
机に広げた資料をまとめていると、教室の入口から声がした。
「すみません」
振り返る。
そこに立っていたのは、二年生らしい女子生徒だった。
グレーアッシュの髪。
少し垂れた目元なのに、瞳は大きい。
色白で、カーディガンを羽織った姿からも、どこかおっとりとした雰囲気を感じる。
「あの、球技大会の資料って、ここでもらえる?」
「はい。二年生の分なら、これです」
「あ、ありがとう」
資料を渡す。
先輩は両手で受け取ると、中身を確認し始めた。
「あ……」
「どうしました?」
「これ、二年生の参加人数って変更されてる?」
「昨日変更になったはずです」
「ああ、やっぱり……」
先輩が資料に目を落としたまま、一歩後ろへ下がる。
そして――。
「あっ」
「え?」
足がもつれた。
身体がぐらりと傾く。
「危ない!」
反射的に腕を伸ばした。
倒れる前に、なんとか支える。
「……」
「……」
「大丈夫ですか?」
「うん……」
先輩は姿勢を戻した。
それから自分の足元を見て、少しだけ困ったような顔をする。
「……ごめん」
「怪我してないですか?」
「大丈夫」
「なら、よかったです」
「……」
先輩が俺を見る。
「あの……今の、忘れてもらえる?」
「無理です」
「即答なんだ……」
しょんぼりと肩を落とす。
「ふふっ」
横から天川さんの笑い声が聞こえた。
「……」
先輩が天川さんを見る。
「ご、ごめんなさい」
天川さんが笑いを抑える。
「ううん、大丈夫」
先輩も少し笑った。
「本当にありがとう」
「これくらい普通ですよ」
「でも、助かったから」
「そうですか?」
「うん」
そこで先輩が、ふと思い出したように言った。
「あ……そういえば、まだ自己紹介してなかったね」
「そうですね」
俺も頷く。
「俺、一年の桐生晃星です」
「天川伊織です」
「私は神崎奈緒。二年生」
「よろしくお願いします、神崎先輩」
「うん。よろしく」
神崎先輩が柔らかく笑う。
「それじゃあ、私はこれで」
「はい」
「ありがとうね」
「こちらこそ」
神崎先輩は資料を抱えて、教室を出ていった。
「……」
「……」
「ちょっと変わった先輩だね」
天川さんが言った。
「そうか?」
「うん。おっとりしてるのに、妙に面白い」
「それは分かる」
「あと、ドジ」
「それも否定できないな」
俺たちは顔を見合わせる。
「ふふっ」
天川さんが笑った。
俺も苦笑する。
――まあ、悪い人ではなさそうだった。
むしろ、助けただけなのに妙に印象に残る先輩だった。
⸻
しばらくして。
俺たちも教室を出る。
廊下を歩いていると、少し前に神崎先輩の姿が見えた。
「あ」
先輩も俺たちに気づいた。
「さっきはありがとう」
「いや、本当に気にしなくて大丈夫ですよ」
「でも、助けてもらったから」
「それならよかったです」
神崎先輩が笑う。
「じゃあ、またね」
「はい」
先輩が歩き出す。
俺たちも少し離れて後ろを歩いた。
すると――。
「……あっ」
神崎先輩の足がもつれた。
「神崎先輩!」
身体が大きく傾く。
俺は咄嗟に駆け寄った。
その瞬間。
バランスを崩した神崎先輩のスカートが――。
「……っ!」
一瞬だけ。
視界に入った。
俺は慌てて顔を逸らす。
それでも神崎先輩の腕を掴み、転倒だけは防いだ。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
先輩が体勢を戻す。
「ごめん……」
「怪我してないですか?」
「大丈夫」
「ならよかったです」
俺はそれ以上、先輩のほうを見ないようにした。
見ようとしたわけじゃない。
本当に一瞬だった。
ただ――。
「桐生くん?」
「……はい」
隣から天川さんの声。
嫌な予感がする。
「今、思いつく色は?」
「…………」
なんだ、その質問。
「何も思い浮かばない!」
「ふーん」
「本当に!」
「本当は?」
「ほんとに思い浮かばない!」
天川さんがじっと俺を見る。
「……」
「いや、本当に見てないから!」
「ふーん」
「前の天川さんの水色の時より全然見てないから!」
「…………」
しまった。
完全に口が滑った。
天川さんの表情から笑みが消える。
「……あの時はガッツリ見たってことだね?」
「…………」
墓穴を掘った。
どうして俺は、こういうときに余計なことを言ってしまうんだ。
天川さんの右手が、ゆっくり握られる。
「……ほぉ?」
「いや、違う! 今のはそういう意味じゃなくて!」
「どういう意味?」
「比較対象として――」
「うん」
「だから――」
「桐生くん」
「はい」
「ちょっと動かないでね」
「なんで!?」
次の瞬間。
バギャッ!!
「――――っ!」
衝撃。
視界が大きく揺れた。
身体から力が抜ける。
床が近づいてきた。
……またか。
俺はまた、命の危機を迎えていた。
「桐生くん!?」
神崎先輩の声が聞こえる。
「大丈夫!?」
「……だ、大丈夫……」
「大丈夫じゃないでしょ!」
神崎先輩が慌てて俺のそばにしゃがみ込む。
「頭、打ってない?」
「……多分」
「多分って……」
心配そうな声だった。
「桐生くん、目は開けられる?」
「開いてます……」
「よかった……」
神崎先輩が、ほっと息を吐く。
「少し、このままでいて」
「え?」
頭をそっと持ち上げられる。
そして――。
「……?」
柔らかな感触。
「…………」
そこでようやく気づいた。
俺の頭は、神崎先輩の膝に乗っている。
「…………え?」
「どうしたの?」
「俺……」
「うん?」
「膝枕……されてます?」
「……」
神崎先輩の頬が、ほんのり赤くなった。
「……そうだね」
「なんで……」
「倒れちゃったから」
「いや、それは分かりますけど……」
「頭を打ってたら心配だから。起き上がらないほうがいいよ」
「……はい」
言われるまま、身体の力を抜く。
すると。
柔らかな感触が、頭を包む。
「…………」
そして、ふわっと。
ほのかな香水の香りがした。
「…………」
「桐生くん?」
「……何でもないです」
「そう?」
「はい」
危ない。
今、余計なことを言ったら生死に関わる。
……いや。
次は多分死ぬ。
「ふふっ」
「……何ですか?」
「桐生くんって、面白いね」
「俺、今かなり大変な目に遭ってるんですけど」
「そうだね」
「笑うところじゃないですよ」
「ごめんごめん」
そう言いながら、神崎先輩は笑っている。
「でも……」
「はい?」
「ちょっと安心した」
「……?」
「元気そうだから」
「……」
その言葉だけは、妙に真剣だった。
「心配してくれて、ありがとうございます」
「……」
神崎先輩が一瞬だけ黙る。
それから、柔らかく笑った。
「どういたしまして」
――変な先輩だ。
だけど。
優しい人なんだろうな。
そう思った。
⸻
「もう大丈夫です」
「本当?」
「はい」
「無理してない?」
「大丈夫ですよ」
「……よかった」
神崎先輩がゆっくり立ち上がる。
「すみません。膝まで借りちゃって」
「いいよ」
「でも――」
「桐生くん」
「はい?」
「今日はもう、無理しないでね」
「分かりました」
「本当に?」
「本当です」
「……ふふっ」
「また笑った」
「ごめん」
神崎先輩が笑う。
「じゃあ、また明日」
「はい」
「天川さんも」
「はい」
「桐生くんをあまりいじめないでね?」
「…………」
天川さんが俺を見る。
「善処します」
「天川さん!?」
神崎先輩が楽しそうに笑った。
「ふふっ。それじゃあ」
「はい」
神崎先輩はそのまま廊下の向こうへ歩いていった。
姿が見えなくなる。
「……」
「……」
天川さんが呟く。
「変わった先輩だね」
「……だな」
「おっとりしてるのに、結構からかってくるし」
「それは思った」
「でも、優しいね」
「うん」
俺は神崎先輩が去っていった方向を見る。
「……」
さっきの膝枕を思い出す。
柔らかな感触。
そして、ほのかに残っている香水の香り。
「……柔らかかったな」
「…………」
「あと、ほんのり香水の匂いも……」
「…………」
横を見る。
天川さんが俺を見ている。
そして、ゆっくりと拳を握った。
「……何か?」
「いや、違うからね!」
「…………」
「ほら、雰囲気が柔らかいっていうことね!」
「…………」
必死に弁明する俺。
天川さんは何も言わない。
ただ、じっと俺を見ている。
「…………」
「…………」
そして――。
「……ほぉ?」
その一言だけが、静かな廊下に響いた。
……。
俺の青春に、平穏はない。




