届かぬ声、進まぬ体
一年前の夏。
奈緒が高校一年生だった頃。
今の奈緒を知っている人が見れば、少し驚くかもしれない。
一年前の奈緒は、今よりずっと人見知りだった。
知らない人に自分から話しかけるなんて、ほとんどできない。何か聞きたいことがあっても、何度も頭の中で言葉を考えているうちにタイミングを逃してしまう。
困っても、すぐに「助けて」と言えるタイプでもなかった。
そんな奈緒にとって、知らない人だらけの場所に一人で行くなんて、本当ならかなり勇気のいることだった。
それでも、その日は行かなければならなかった。
その日の朝、奈緒は姉の真央と喧嘩をしていた。
原因は本当に些細なことだった。
何気ない一言から言い合いになり、お互いに意地になった。
「もういい!」
「こっちだってもう知らない!」
結局、仲直りできないまま真央はバレーの試合へ行ってしまった。
一人になった奈緒は、しばらく自分の部屋で机の上を見つめていた。
そこには、小さなお守りが置かれている。
本当なら今日、試合前に真央へ渡すつもりだったものだ。
『頑張ってね』
そう言って渡すはずだった。
奈緒はお守りを手に取った。
「……やっぱり、渡したい」
喧嘩したままなんて嫌だった。
試合を頑張ってほしいという気持ちも、変わっていない。
だから奈緒は一人で家を出た。
知らない人がたくさんいる場所も苦手。
一人で行動するのも得意じゃない。
それでも、真央にお守りを渡したかった。
*
体育館が見えてきたところで、奈緒は足を止めた。
「……え?」
人が多い。
いや、多すぎる。
体育館の入口周辺には、学生だけでなく大人や家族連れまで集まっていた。
「やっぱりすげぇ人だな」
「テレビで見たことある選手、本当に来るんだよな?」
「見られるかな?」
今日、真央のチームが対戦する相手には、一人の有名な選手がいた。
高校生ながらメディアにもよく出演し、将来のプロ入りは確実と言われている。
さらに日本代表候補としても注目されている選手。
その選手を一目見ようと、多くの人が体育館へ集まっていた。
奈緒は人だかりを見つめた。
「……こんなにいるなんて」
正直、帰りたくなった。
こんな人の中に一人で入っていくなんて。
今の奈緒には、とてもじゃないけど簡単なことじゃない。
それでも。
奈緒は鞄の中のお守りに触れた。
「……渡さなきゃ」
せっかくここまで来たんだから。
真央に謝りたい。
ちゃんと、頑張ってって言いたい。
奈緒は小さく息を吸うと、人の流れへ近づいていった。
その少し離れた場所では。
「なんだよ、これ」
「人多すぎだろ」
「なんかあんの?」
「バレーの試合だって」
「え? バレーで?」
「知らん。なんか有名な選手が来るらしいぞ」
地元の友達数人と一緒にいた中学三年生の男子たちも、人の多さに興味を持って体育館の方を覗いていた。
「せっかくだし見てみる?」
「まあ、ちょっとだけな」
彼らは元々バレーを見に来たわけではなかった。
ただ、やけに人が集まっている。
何があるのか気になっただけだった。
一方、奈緒は人の流れの端から中を覗き込む。
真央を探したい。
けれど、人が多すぎて体育館の中もよく見えない。
――誰かに聞かなきゃ。
奈緒は近くにいた人へ近づいた。
「あ、あの……」
けれど。
「うわ、すげぇ!」
「早くしないと見えなくなるぞ!」
周囲の声に、奈緒の小さな声はかき消された。
奈緒は一度口を閉じる。
……もう一回。
勇気を出して、別の人へ近づく。
「すみません!」
今度は少し大きな声を出した。
けれど、相手はそのまま奈緒の横を通り過ぎていく。
聞こえていない。
奈緒は唇を噛んだ。
誰かに聞くだけ。
それだけなのに。
奈緒にとっては、それだけでもすごく勇気が必要だった。
それでも。
もう一度。
「あの、すみません!」
奈緒が声をかけた瞬間だった。
後ろから人の流れが押し寄せた。
「きゃっ……!」
身体が大きく揺れる。
慌てて踏ん張ろうとした。
けれど。
「ちょっと、邪魔!」
「前行かないならどいてよ!」
「あ……す、すみません……!」
奈緒は慌てて端へ避けようとする。
でも人の流れは止まらない。
肩がぶつかる。
鞄が押される。
奈緒は人の波に弾かれるように、入口の端まで追いやられた。
「……」
手の中には、さっきからずっと握りしめているお守り。
これだけは落としたくなかった。
「……渡さなきゃ」
奈緒はもう一度、人混みを見る。
怖い。
でも。
ここで帰ったら、絶対に後悔する。
奈緒は震える足を動かした。
もう一度。
人混みの中へ。
「すみません!」
勇気を振り絞って声を上げる。
けれど。
「だから邪魔だって!」
「あっ……!」
また押し戻された。
背中が壁に当たる。
「ご、ごめんなさい……」
誰に言うでもなく、小さな声が漏れた。
ただ。
お姉ちゃんにお守りを渡したいだけなのに。
どうして。
こんなにうまくいかないんだろう。
奈緒はもう一度、人の流れを見る。
――行かなきゃ。
でも。
足が動かない。
周りには知らない人ばかり。
大きな声。
絶えない話し声。
体育館から聞こえる歓声。
さっきまで必死に勇気を振り絞っていた奈緒の心が、少しずつ追い詰められていく。
「……っ」
息を吸う。
けれど。
うまく吸えない。
「はっ……」
もう一度。
「……は、ぁ……」
呼吸が浅い。
胸が苦しい。
奈緒はお守りを握ったまま、壁際に身を寄せた。
――ダメ。
ちゃんとしなきゃ。
お姉ちゃんに渡さなきゃ。
一人で来るって決めたのは自分なのに。
「……真央、お姉ちゃん……」
声が震える。
視界が少しぼやける。
顔から血の気が引いていく。
「はっ……は……」
その頃。
人の多さに驚きながら体育館を覗こうとしていた男子たちの一人が、ふと入口の端へ視線を向けた。
「……あれ?」
「ん? どうした?」
友達が尋ねる。
「あそこ」
男子が指差す。
壁際にいる女の子。
最初はただ人を避けているだけに見えた。
けれど。
顔色が明らかにおかしい。
真っ青だった。
しかも、呼吸も浅い。
「え、あの子大丈夫か?」
「なんかヤバくね?」
友達の一人がそう言った。
男子は奈緒を見たまま、すぐに歩き出した。
「ちょっと待ってて」
「おい、行くの?」
「何なら先行ってて!」
「……だよな」
と、男の子の友達2人は顔を見合わせて笑う。
男子は人を避けながら奈緒の元へ向かった。
奈緒にはもう、周囲の声がほとんど聞こえていなかった。
ただ。
苦しい。
それでも。
手の中のお守りだけは。
絶対に離せなかった。
そんな奈緒の前に。
一人の男の子が立った。
「ねぇ」
奈緒がゆっくり顔を上げる。
「……大丈夫?」
知らない男の子だった。




