いや、なんでここにいる!???
桐生晃星の母親が退院してきたのは、前日のことだった。
久しぶりに自宅で一晩を過ごし、迎えた翌朝。
晃星は二階の自室で、まだ気持ちよさそうに眠っていた。
そんな息子を起こすことなく、母親は鏡の前で身支度を整える。軽く化粧をして、出かけるための服に着替え、バッグを手に取る。最後に車のキーを持つと、小さく頷いた。
「よし」
今日は約束があった。
退院したばかりの自分を気遣ってくれていた伊織と、久しぶりに会う約束だ。
車に乗り込むと、教えてもらっていた天川家の住所をナビに設定する。
その途中、一軒の和菓子屋へ立ち寄った。
「せっかくだしね」
伊織が好きだと聞いていた和菓子を選び、手土産として包んでもらう。それを助手席に置くと、再び車を走らせた。
*
一方、その頃。
天川伊織も自分の部屋で準備をしていた。
今日はあっきーママと会う約束をしている。
昨日、無事に退院したと聞いたばかりだった。久しぶりに会えるのが嬉しくて、伊織はいつもより少し時間をかけて髪を整え、軽く化粧をしていた。
今日選んだのは、きれいめのワンピース。
鏡の前で一度、全身を確認する。
「……うん。いいかな」
もう一度だけ髪を整える。
別に。
「あっきーに会うかもしれないから気合い入れてるわけじゃないし」
鏡に映る自分に向かって、小さく呟く。
「今日はあっきーママと会うから、ちゃんとしてるだけ」
うん、と自分に言い聞かせるように頷いた。
その直後。
玄関のチャイムが鳴った。
続いて、外から明るい声が聞こえてくる。
「伊織ー、来たよー!」
「はーい!」
伊織が返事をすると、母親が玄関へ向かった。
扉を開ける。
「こんにちは」
そこには手土産を持った女性が立っていた。
「あ、はじめまして。伊織の母です」
伊織ママが明るく笑いながらそう言うと、あっきーママも軽く頭を下げる。
「はじめまして。桐生晃星の母です。今日は――」
「あー、もうもう!」
伊織ママはすぐに手を振った。
「伊織から話聞いてるから、そんな気を遣った話し方やめて?」
「え?」
「もっと普通に話そ! せっかく来てくれたんだし」
初対面とは思えない屈託のなさに、あっきーママは一瞬驚いた。
けれど、すぐにふっと笑う。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「そうそう!」
伊織ママは笑顔で家の中を指差した。
「ほら、暑かったでしょ? 早く入って!」
「ありがと」
あっきーママも少し砕けた口調で答えた。
「そうだ。これ」
持っていた紙袋を差し出す。
「えっ、手土産まで?」
「伊織ちゃんが好きだって聞いてた和菓子。よかったら」
「わー! ありがとう!」
「それとね」
伊織ママが紙袋を受け取ったところで、あっきーママが続ける。
「今日はちゃんとお礼も言いたくて」
「お礼?」
「入院してる間、晃星がいろいろお世話になってたみたいだから」
「そんなの全然いいのに!」
「いやいや。それに……伊織ちゃん、晃星のお弁当まで作ってくれてたんでしょ?」
「……え?」
伊織ママの動きが止まった。
「お弁当?」
ちょうどその時。
「あっきーママ!」
伊織が姿を見せた。
「あっ、伊織ちゃん!」
「昨日退院したんだよね! よかった!」
「ありがとー! もう元気元気」
「無理しちゃダメだよ?」
「大丈夫大丈夫!」
二人のやり取りを見ていた伊織ママが、ゆっくりと娘へ視線を向けた。
「……伊織?」
「ん?」
「今、お弁当って聞こえたんだけど?」
「……あ」
伊織が固まる。
そして恐る恐る、あっきーママを見る。
「……あっきーママ。それ、お母さんには内緒だったのに」
「あっ、ごめん!」
「別に怒ってないけど……」
その横で、伊織ママの口元がゆっくりと上がっていく。
「へぇ〜?」
「……お母さん」
「伊織がお弁当作ってたんだ?」
「別に。あっきーが困ってたから」
「へぇ〜〜?」
「その顔やめて」
「どの顔?」
「そのニヤニヤした顔!」
伊織ママは、まったく隠す気もなく笑っていた。
「いやぁ、知らなかったなぁ」
「だから、もういいでしょ」
「だってさぁ」
わざとらしく首を傾げる。
「私の分作ってくれたのは、あっきーのおまけだったんだねぇ」
「ち、違うし!」
「あら、違うの?」
「……もう!」
伊織の顔が一気に赤くなる。
そんな二人を見ていたあっきーママが、ふっと笑った。
「……なんか、分かった気がする」
「ん?」
伊織ママが首を傾げる。
あっきーママは伊織を見て、それから伊織ママへ視線を戻した。
「伊織ちゃんって、お母さん譲りの美人さんなんだなって」
「えっ?」
「ちょっと、あっきーママ!」
伊織が慌てて顔を赤くする。
伊織ママはそんな娘を見ながら、嬉しそうに笑った。
「え〜、そう?」
「うん。それに……こんなに明るいお母さんだから、伊織ちゃんがあんなに天真爛漫で、いい子になったんだなって。なんか見てて納得しちゃった」
伊織ママは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑顔になる。
「……そう言ってもらえると嬉しいな」
「本当にそう思うよ」
伊織は恥ずかしそうに俯いていたが、その言葉を聞いてふと顔を上げた。
目の前では、自分の母親とあっきーママが笑っている。
初めて会ったはずなのに、すぐに打ち解けて。
明るく笑って。
思ったことをそのまま口にする。
――あっきーママ、ウチのママみたいなんだ。
伊織は二人を見ながら、なんだか納得した。
だから、あっきーママもあんなふうにあっきーと接しているんだ。
あっきーがあっきーママのことを大切にしているのも、少しだけ分かった気がした。
「……そっか」
「ん? どうしたの?」
「なんでもない!」
伊織はそう答えると、いつものように笑った。
すると伊織ママが時計を見る。
「あ、そろそろ時間じゃない?」
「あっ!」
伊織が慌てて顔を上げる。
「そうだった!」
「予約してたんでしょ?」
「うん!」
伊織はあっきーママを見る。
「行こ!」
「うん」
二人は玄関を出て、車へ乗り込んだ。
*
二人で向かったのは、予約していたランチのお店だった。
久しぶりの外出でもあるあっきーママを、伊織はやはり気にかけていた。
「本当に大丈夫? まだ退院したばっかりでしょ?」
「大丈夫だって」
「無理してない?」
「伊織ちゃん、私のこと何歳だと思ってるの?」
「そういう意味じゃない!」
「ふふっ」
助手席の伊織を見ながら、あっきーママは楽しそうに笑った。
ランチの時間は、思っていた以上にあっという間だった。
入院中の話。
学校であったこと。
そして、自然と晃星の話にもなる。
「あっきー、ちゃんとやってる?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「家では相変わらず」
「相変わらずなんだ」
「寝る時はほんとによく寝るよ」
「それは知ってる」
「伊織ちゃん、知ってるんだ?」
「……あ」
伊織が固まった。
あっきーママが、にやっと笑う。
「なんで知ってるのかなぁ?」
「べ、別に!」
「ふふふ」
「もう!」
伊織は頬を膨らませる。
そんなやり取りをしながら、二人はゆっくりとランチを楽しんだ。
食事を終えて店を出ると、あっきーママが尋ねた。
「このあとどうする?」
伊織は少し考える。
「んー……」
「せっかくだし」
「うん?」
「ウチ、寄ってく?」
「えっ?」
「まだ来たことないでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、どう?」
伊織は一瞬だけ驚いたあと、笑顔になった。
「……うん!」
*
車は桐生家へ向かった。
家の前に到着すると、伊織は車を降りる。
「ここが……あっきーの家」
「そうだよ」
伊織は少しだけ家を見上げた。
「なんか不思議」
「何が?」
「……なんでもない!」
伊織はそう言って笑った。
「お邪魔します!」
「どうぞどうぞ」
伊織は初めて桐生家へ足を踏み入れた。
「適当に座ってて」
「うん」
「飲み物持ってくるね」
「ありがと」
伊織はリビングのソファに腰を下ろす。
初めて入る晃星の家。
なんとなく周囲を見回してしまう。
「あっきーは?」
「まだ寝てると思う」
「えっ」
「昨日も夜遅かったみたいだし」
「昼過ぎまで?」
「ありえる」
「……寝すぎじゃない?」
「ほんとにね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その後もしばらく、伊織はあっきーママとの時間を楽しんでいた。
*
一方。
二階の自室では、晃星がようやく目を覚ました。
「……ん」
ぼんやりと時計を見る。
「……昼過ぎ?」
思っていた以上に寝ていた。
「やば」
晃星はベッドから起き上がり、寝ぼけたまま部屋を出る。
一階から母親以外の気配がするような気もしたが、まだ頭が完全に起きていない。
「……トイレ」
何の疑いもなく、扉を開けた。
「……」
「……」
二人とも固まった。
晃星の目の前には、本来いるはずのない人物。
伊織もまた、突然開いた扉の向こうに晃星がいることを理解できず、固まっている。
数秒。
晃星はゆっくりと扉を閉めた。
ぱたん。
廊下で立ち尽くす。
「……」
いや。
今の。
見間違い?
寝起きだから?
晃星は一度だけ目を擦った。
そして恐る恐る、もう一度扉を開ける。
「……伊織ちゃん!???」
「二回も見るなぁぁぁっ!!」
伊織が近くにあった物を勢いよく投げつけた。
「うわっ!?」
晃星は反射的に扉を閉める。
バンッ!
「バカぁぁぁぁっ!!」
扉の向こうから伊織の声が響いた。
晃星は閉じた扉を見つめたまま、完全に目が覚めていた。




