第6話 勝ち馬
この異常事態に、一番のパニックに陥ったのは品川だった。
品川陣営の選対本部は、深夜にもかかわらず怒号と悲鳴が飛び交う修羅場と化していた。トレードマークの白いスーツの襟を大きくはだけさせ、品川は手にしたタブレット端末を机に叩きつけた。
画面には神崎がSNSに投稿した一枚の写真が映っていた。
『うちの飼い猫、だいちゃん』
ハチワレ猫が、昼寝をしているだけの写真だった。
「な、何よこれ! 私がこんなに必死に国益を訴えているのに……あいつ、ネットで猫の写真アップしただけで、なんで三桁近い議員を寝返らせてるのよ!?」
忌々し気に吐き捨てた。
このままでは、決選投票に残るどころか、歴史的な大惨敗を喫してしまう。
「このままだと不味いわ……」
親指の爪を噛む。
(政治家なら後ろめたいことが、なにかあるはずよ……)
「何を突っ立っているのよ! 早く神崎の勢いを止めるネタを出しなさい! どんな小さなことでもいい、あいつのスキャンダルを探し出すのよ!!」
品川の血走った目に気圧され、秘書や私設調査員たちが一斉に電話をかけ、パソコンのキーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
「せ、先生! 神崎の地方票の基盤である地元の『神崎会』ですが、おやじ連中が毎晩のように居酒屋で大宴会を開いて票を取りまとめています! これ、公職選挙法違反の『供応買収』にあたるんじゃ……」
「バカ言わないで! あいつらは勝手に集まって自腹で割り勘して飲んでるだけよ! 法律の網をすり抜けることだけは、あの秘書が完璧に計算してるわ!」
品川は苛立たしく爪を噛んだ。
神崎の秘書は、カネと法律に関しては永田町でも一、二を争う潔癖主義で通っている。神崎の政治資金収支報告書は、一円のズレもなく完璧に管理されているのだ。
「じゃあ女よ! あいつはあの顔よ!? あの顔をして、四十代まで独身で通しているのよ!? 女の一人や二人、転がしていないはずがないわ! 春文でも新波でも、どこの記者でもいいから、神崎の愛人写真を引っ張ってきなさい!」
「それが……」
調査員の一人が、冷や汗をかきながらタブレットを差し出した。
「神崎の女性関係ですが……完全に『白』です。毎晩、国会閉会後は真っ直ぐ赤坂の議員宿舎に帰っています。深夜に部屋を訪れる人物の記録もすべて洗いましたが……」
画面に表示された監視ログを見た品川は、目を見開いた。
『23:15 鈴木秘書、エナジードリンクの箱を抱えて入室』
『01:40 鈴木秘書、胃薬の空き殻をポケットに詰め込んで退室』
『翌07:20 鈴木秘書、神崎の着替え用のスーツを持って入室』
「……なによこれ。あいつ、女と遊ぶどころか、秘書としか会ってないじゃないの!」
「は、はい。神崎氏は極度の天然で、趣味は『自宅での猫との昼寝と、猫のYouTube動画を観ること』らしく、夜の街での目撃情報は皆無です。私設秘書が徹底して、神崎氏の余計な行動をしないよう監視するために、ほぼ付きっきりで私生活を管理している状態でして……」
あまりの「スキャンダルの無さ(というか、私生活の地味さ)」に目眩を覚えた。
ネットであれだけ『尊い』『ロックだ』と騒がれている男の正体が、ただの「秘書に完全管理された猫好きの天然イケメン」だとは。
女性問題 なし
政治資金 適法
高級料亭 利用歴なし
海外視察 土産代自腹・現地遊興費自腹
趣味 昼寝・猫動画
「まともすぎるでしょうが!政治家なのよ、政治家!異常よ」
激高する品川の前に調査員の一人が恐る恐る神崎の地元での活動をプリントした書類を置いた。
品川はその報告書を床に叩きつけた。
はらり……
机に叩きつけられた衝撃で報告書がばらばらにリノリウムの床に散らばる。
散らばったことすら腹立たしいと報告書を睨みつけると、二枚の書面が目に入った。
一枚は神崎がボーリング大会で優勝した時のもの、もう一枚は地元の福引で当てた商品券を受け取っている写真だった。写真の中で笑っている神崎。
(むかつく……ふふふ……)
品川の口元が嫌な感じに歪んだ。
一方の三井は不気味に沈黙を保ちながら何かを練り始めた。
「三井先生! 大変です、神崎の地方票が化け物じみた伸び方をしてます! このままだと一回目の投票で神崎が……」
三井陣営の選対本部では、若手国会議員や秘書たちが血相を変えて飛び交っていた。
モニターに映し出されるSNSのトレンドワード、そして横浜から伝わってくる『神崎会』の大躍進の報に、室内はパニック寸前の焦燥感に包まれている。
品川陣営がヒステリックに怒鳴り散らしているのと同様、こちらも確実に追い詰められていた。
しかし、その喧騒の中心で三井だけは、温厚な相好を崩さぬまま、静かに高級な老眼鏡を指で押し上げた。
手元にあるのは、最新の「議員票・地方票予測一覧」が書かれた、一切表に出せない極秘の閻魔帳。
三井は万年筆の先で、各派閥の数字をトントンと叩きながら、淡々と票を読み進めていた。
「先生! なぜそんなに落ち着いていられるんですか! 早く神崎の地元にネガティブキャンペーンを仕掛けないと、うちの若手まであっちに寝返りますよ!」
中堅議員が焦りから声を荒らげる。
三井はふっと目を細め、老獪な微笑を浮かべた。
その顔は、長年永田町の泥水をすすり、いくつもの首をすげ替えてきた「古狸」そのものの凄みを帯びている。
「……慌てるな。政治は感情でするものじゃない。数でするものだよ」
三井の低い、地味だが確信に満ちた声が選対を静まらせた。
三井は声を荒らげることも、机を叩くこともしなかった。温厚な相好からスッと表情を消し、手元の閻魔帳に書かれた数字を、冷徹な目で睨みつける。
(……なるほど。ここまで化けたか)
万年筆の先で、各都道府県の党員票の予測値をトントンと叩く。
何度計算し直しても、導き出される答えは一つだった。
先行きの怪しさ――それは、自分が二位に残れないことではない。品川と自分の票を合わせても、一回目で神崎の過半数圧勝を阻止できるかどうかの瀬戸際にある、ということだ。政治とは、勝ち馬に乗るゲームだ。
負け戦に最後まで付き合うほど、三井は義理堅い男ではない。
万年筆が、閻魔帳の『決選投票』という文字の横に、鋭いチェックマークを入れる。
中堅議員がお伺いを立てた。
「先生、どうします?」
「……」
三井は静かに閻魔帳を閉じた。
三井は老眼鏡を外し、おもむろに立ち上がる。
窓の外の夜景に背を向けた。
その顔には、再びいつもの柔和で老獪な微笑が戻っていた。
すでに脳内のチェス盤は、次の局面に切り替わっている。
「神崎君に会ってくる」
部屋の空気が凍った。
「……えっ?」
誰もその言葉の意味を理解できなかった。
三井の目が、怪しく光った。
(掌で転がす。貸しは、返してもらう。政治とはそういうものだよ……)
三井は実に愉しげに、老獪な牙を剥いて微笑んだ。
何もしたくない鈴木と、何もしないのに勝手に総裁へと近づいていく天然神崎。
永田町を揺るがす奇妙な大番狂わせが、本格的に加速し始めていた。




