第5話 票読み
総裁選の公示から数日。
品川は永田町の議員会館近くに選挙事務所を、三井は平河町の貸会議室に選挙事務所を設置した。
各事務所とも必勝の構えだ。
そんな中にあって、神崎は事務所を構えていなかった。
「選挙事務所構えなくていいのかな?」
「必要ありません」
総裁選に勝ちたくない鈴木は選挙事務所をあえて構えなかった。
「でも、品川さんも三井さんも選挙事務所あるよ。僕だけないのは寂しいんだけど」
「先生、僕ではなく私です。大体、どこの世界に寂しいから選挙事務所を構える政治家がいるんですか。選挙事務所を構えるにもお金が必要なんですよ?しかも自腹。経費の無駄です」
鈴木はパソコンから顔を上げずに迷惑そうに答える。
「ふ~ん。いくら位かかるのかな?ポケットマネーで済む?」
「馬鹿も休み休み言ってください。坪単価三万と換算して、広さは五十坪。月百五十万。先生、出せますか?」
「そんなにするの。お金持ちなんだね、品川さんも三井さんも」
「……個人で出すわきゃないでしょ。資金管理団体や政治資金パーティーで集めるんです。ちなみにこれは、政治家ならしておくべき初歩的なことですからね」
「うへ~藪蛇だった」
神崎と鈴木が選挙事務所について話している時、永田町は、表も裏も「票読み」の冷徹な計算に支配されていた。
議員票を一票でも多くかき集めるため、候補者たちは文字通り血眼になっていた。
「どういうことよ! なんで青年局の若手連中が、急に色よい返事をしなくなるの!?」
品川陣営の選対本部では、トレードマークの白いスーツを着た品川が、激昂して机を叩いていた。
持ち前の発信力を生かし、タカ派の党内右派議員をガッチリ固めたまでは良かったが、そこから先の中道層への広がりが完全にストップしている。
一方、重鎮の三井も、長年培った人脈と老獪な政治手腕で派閥の長老たちに泥臭い根回しを続けていたが、こちらも予想外の苦戦を強いられていた。
若手や中堅議員たちが、まるで何かを伺うように、一斉に態度を保留し始めたのだ。
永田町に冷たい風を吹かせている原因――それは、神崎陣営の「奇妙な静寂」にあった。
「ねえ、鈴木。僕、総裁選のために何かしたほうがいい? 品川さんも三井さんも、あちこちの議員の事務所を回って頭を下げているみたいだけど」
神崎陣営の控室で、神崎はソファに深く腰掛け、すっきりと通った鼻筋に指を当てながら、のんきに尋ねた。
女性を惑わす低音ボイスが、無駄に響き渡る。
その問いに、デスクで凄まじい速度でパソコンを叩いていた鈴木は、眼鏡の奥の目をピキリと光らせた。手元には、本日3本目となるエナジードリンクの空き缶が転がっている。
「……何もしなくていいです。一歩もこの部屋から出ないでください」
「えっ、でも選挙だよ?」
「先生が動けば動くほど、不祥事の弾をバラ撒くか、余計な敵を作るかの二択にしかなりません。もし、本当に先生が当選して総理大臣にでもなってみなさい。その瞬間から、私の睡眠時間はゼロになり、日本中の不始末の尻ぬぐいに走り回る羽目になるのが目に見えてます。私はまだ過労死などしたくありません。だから、先生はここで大人しく、お茶でも飲んでいてください」
鈴木は胃薬の袋を破り、冷徹なツッコミとともに神崎を一蹴した。
神崎を「あえて勝たせない(=現状維持)」ための、敏腕秘書による究極のサボタージュ作戦。
神崎も「そっか、鈴木が言うなら」と、あっけらかんと納得してスマートフォンを開いた。
しかし、この「何もしない」という鈴木の戦略が、ネットの世界で最悪の化学反応を起こす。
『神崎孝一、他の候補者が必死に利権政治の根回しをしてる間、一人だけ飼い猫の動画アップしてて草』
『永田町の古臭いドロドロの票集めに参加しないスタイル、逆にロックで推せる』
『顔が良すぎて、ただお茶飲んでるだけで神々しい』
公開討論会での「愛人に横領」発言の切り抜き動画がTikTokやX(旧Twitter)で数百万再生を記録したのを皮切りに、SNS上で神崎人気が爆発。
ネットのトレンドは四六時中「#神崎孝一」で埋め尽くされた。
すると、永田町の空気が一変した。
凄まじい神崎人気に次期選挙の当落線上にいる議員が、先ず反応した。
「次の衆院選、神崎先生の応援弁士なしじゃ戦えないぞ……」
噂が噂を呼び、次の選挙での生き残りをかける若手・中堅議員たちが、雪崩を打ったように「神崎人気」にあやかろうと動き出したのだ。
神崎の事務所には、挨拶回りもしていないのに
「神崎先生を支持します!」
という推薦の電話が鳴り止まなくなっていく。
「先生……また議員票の読みが五票増えました。何もしないでくださいと言ったのに、なぜ勝手に票が集まるんですか……」
頭を抱える鈴木の横で、当の神崎は「みんな親切だなあ」と涼しげな顔で笑っている。
議員票もさることながら、党員票も地元の後援会の後押しで猛烈な勢いで伸びていた。
永田町の鈴木が胃を痛めながら「何もしない作戦」を遂行しているその裏で、神崎大吾の地元・横浜では、別の意味で制御不能な爆弾が爆発しようとしていた。
港の見える丘から見下ろす、青い海と街並み。
ここ神崎の選挙区は、今やさながら「お祭り騒ぎの震源地」だった。
「おい! 旭区の町内会長から色よい返事をもらったぞ! これで地方の党員票はさらに300上乗せだ!」
横浜港の船渠の元幹部や、先代家元、医師会会長、地元の商店街連盟の重鎮たち――いわゆる地元の「おやじ世代」が集まる居酒屋では、かつての某政治家の最強後援会を彷彿とさせる熱気で、男たちがビール杯を掲げていた。
彼らを突き動かしているのは、純粋な男のロマンと、かつて孝一の父・大吾や祖父・大作に受けた大恩だ。
「孝一の親父さんには、うちの会社が傾いたときにどれだけ助けられたか。今度は俺たちが、息子を助ける番だ!」
「ネットなんて上っ面のもんに負けてたまるか! 古き良きドブ板の力、永田町のキツネどもに見せつけてやろうじゃねえか!」
「おう!」
彼らは自らの古い経歴と泥臭い人脈をフル活用し、全国の党員たちに「とにかく神崎孝一と書け」と電話攻撃を仕掛け、地方票をものすごい勢いで取りまとめていた。
鈴木の「勝たせない作戦」など、地元の熱い男たちには知る由もなかった。
しかし、その一方で。
同じ横浜のお洒落なカフェテラスでは、地元の女性陣が、全く別の複雑な表情でスマートフォンを見つめていた。
「……ねえ、これ見てよ。東京の女子大生が『孝一きゅん、お茶飲んでるだけで尊い』だって。何が『孝一きゅん』よ、安っぽく呼ばないでほしいわ」
神崎の女性後援会『みなとの会』の面々は、アイスティーをかき混ぜながら深いため息をついていた。
彼女たちにとって、神崎孝一は「地元の隠れた最高級のアイドル」だったのだ。
地元の夏祭りで浴衣姿で焼きそばを焼いてくれたり、商店街のドブさらいに爽やかな汗を流してくれたり、あの極上の低音ボイスで「いつも応援ありがとうございます」と、自分だけに微笑みかけてくれた、大切な神崎。
それが今や、SNSを通じて一気に「全国区の男」になろうとしている。
「総理大臣になんてなったら、もう横浜のパレードにも滅多に来られなくなっちゃうじゃない」
「そうよ! SPが周りをガチガチに固めて、気軽に声もかけられなくなるわ。国のために孝ちゃんを差し出すなんて、正直ジレンマだわ……」
「品川さんとかいう白いスーツの人に、テレビでキーキー怒鳴られている神崎ちゃんを見るのも可哀想だし。いっそ、総裁選なんて負けて、横浜にずっといてくれた方が……」
地方票を死に物狂いでかき集める男性陣の「猛進」と、神崎を遠い存在にしたくない女性陣の「独占欲とジレンマ」。
このローカルかつ強烈な熱量が、鈴木のあずかり知らぬところで、総裁選のキャスティングボードを完全に握りつつあった。




