第3話 胃痛の私設秘書
宵闇に包まれた赤坂の高級料亭『洗心亭』の奥座敷。
コン。
喧騒から隔絶された庭園ではししおどしが虚しい音を響かせていた。
屋久杉の一枚板で出来ている卓上には、焼き上がったばかりの鮎の塩焼きが運ばれてきた。
解禁されたばかりの若鮎。炭火でじっくりと炙られた皮目は、爆ぜた化粧塩をまとって白く輝いている。香魚の名にふさわしい瑞々しい香りが湯気とともに立ち上り、同時に、香ばしい焦げの匂いが男たちの鼻腔をくすぐった。
大河原は、無言のまま箸を伸ばした。 踊り串を打たれ、清流を遡上する姿のまま固められた若鮎。大河原はその頭を容赦なく箸で押さえつけると、尾ひれを折り、身を軽く揉みほぐした。
「神崎 孝一?誰だ、そやつは」
対面に座る幹事長の武藤へ、大河原は冷徹な視線を向けた。総裁選という巨大な渦の中に、突如として浮上した不穏な新星。その名を口にする大河原の声は、低く、部屋の空気をぴりりと震わせた。
武藤の背筋に冷たいものが走る。
「桜庭より一つか二つ若い議員で、桜庭に負けないほど容姿はいいです」
(……揉んでいる……神崎も、あのようにじわじわと揉み潰す気か!?)
武藤が心の中で冷や汗を流す中、大河原は鮎の頭を掴んで、一気に引き抜いた。
するりと、一本の美しい魚骨が身から抜け落ちた。
(ひえっ……! 神崎も、神崎のキャリアも、一瞬でこうやって骨抜きにされる……!)
武藤は思わず自分の背骨を意識して、姿勢を正した。
どれほど威勢よく泳いでいた若鮎とて、手練れにかかれば一瞬で骨抜きにされる。その残酷なまでの老獪さを、大河原は平然とやってのけた。
(怖い……さすが長年に渡り、わが党を牛耳っているだけはある……私も下手を打ったらあのように骨を抜かれる……)
武藤は震えを押し殺した。
しかし、当の大河原は、骨の抜けた美しい白身と、その奥に詰まった濃厚なワタをじっと見つめ、ただ「綺麗に抜けて大満足」という顔をしただけだ。
ガブリと傲慢に口へ運んだ。
大河原はもぐもぐと味わい、ふう、初物は美味いなと満足げな、しかし他人から見れば「獲物の息の根を止めた」ようにしか見えない重々しいため息をついた。
冷徹な目を武藤に向けた。
実際はただの食い終わったというだけなのだが、目つきが悪いため武藤には冷徹に見えた。
武藤の額から、ついに一滴の汗が畳へと滴り落ちた。
武藤はごくりと唾を飲み込み、
「代々無派閥の一匹狼を気取っている、神崎のところの若手です」
と説明する。
大河原の日本酒を呑んでいた手が止まった。
「神崎だと?……」
声に不機嫌さが混じった。
「は、はい」
「そういえば、孫がいたな……」
タンッ!
大河原が音を立てて卓に盃を置いた。
静観していた有賀がそれとは知られないように武藤の脇を肘で突いた。
「おい、不味いいぞ、神崎のところは」
「どうしてだ?」
「神崎の先代、先々代は派閥政治に真っ向から異を唱え、長老たちの意向を飛び越えて発言してたんだ。大河原先生も何度も煮え湯を飲まされたんだ、お前も知っていただろうが」
有賀から聞かされ、思い出したとばかりに武藤は真っ青になった。
「あやつの孫か……よい、よいな。党内派閥政治がなんたるか教えてやろう……なぁ、有賀、武藤」
大河原が不穏な色に染まった目を二人には向けた。
いつもなら窓から手前に広がる皇居の緑と虎ノ門、大手町方面の高層ビル群との美しいコントラストが楽しめる神崎の議員事務室だが、今日は暴風が吹き荒れていた。
発生源は私設秘書の鈴木。
「だから、いつもあれほどサインをする時は、よく読んで理解した上でサインをして下さいお願いしてますよね、私は!」
鈴木が眼鏡のレンズの向こうから冷たい視線を神崎に浴びせていた。
執務室の椅子に座っている神崎は身を縮こませて、上目遣いで鈴木を見る。
「ごめん。党が危ないって言われたから……」
「レイムダック寸前ですから、危なくないとは言えませんが、先生にはこれっぽちも関係ありませんよ」
「そうかな?一応、民自党に属してるんだよ、僕」
「そうじゃなくて、連れ込まれた時点で怪しいでしょうが!それと、僕ではなく私です!」
(よりにも寄って、総裁選の届出書にサインしただと!?総裁候補になっただと!?この男が?)
怒りのせいで鈴木はぜいぜいと息を切らしていた。酸欠で目の前はちかちかしている。
鈴木は父、宗助が私設秘書を引退するにあたり、父から私設秘書を引き継いだ。
思い起こせば、神崎に着いた初日に車に轢かれた猫を助けて通常国会に遅刻した時点で、普通じゃなかった。嫌な予感がしていた。派閥政治を嫌い一匹狼はまだいい。だが、重鎮や派閥の領袖に対して無反応はない。お人よしが昂じて頼まれると嫌とは言えない。何度危ない目にあってきたか。その都度、自分と神崎の弟の悟が駆けずり回って対処してきた。弟の悟など「兄さんは絶対にやらかす。やらかした時のためだけに僕は弁護士になったんだ」と遠い目をして言っていた。悟とはもはや後始末に追われる同志だった。
天然でお人好し。腹芸一つできないこの男が総裁選候補……
万が一にでも総裁、ひいては総理にでもなったら自分の胃は死ぬ。
悟は過労死決定だ。
父がそれ見たことかと笑っている幻影が見えた。
絶対に阻止しなければならない。
「でね、鈴木……記者会見とか討論会とかあるみたいなんだ。用意するものある?」
鈴木の胸の内も知らず、神崎が聞いてきた。
「記者会見……討論会……」
「泊りがけになるから着替えは必要だよねぇ……」
「先生、いつです、所見発表演説会は」
「ええっと、いつだったかな……演説会は明後日で、共同記者会見は翌日だよ」
「明後日……」
鈴木は茫然とした。
所見発表演説会用の原稿を明日までに、共同記者会見用を明後日までに用意だと……
その上、地方の党員や一般有権者に向けて演説や討論用、公開討論用の原稿やレクチャーを用意しなければならないではないか。
(む、無理だ……公設秘書と一緒にエナジードリンクを許容限度量まで飲んだところで無理だ。書けない……)
鈴木は絶望の淵に立たされた気分だった。
「鈴木、コーヒーくれる?疲れちゃったよ」
「……ほう、疲れたですか……」
(何が疲れただ。今の話で私はその数十倍疲れましたよ)
鈴木が拳を握り締める。
(一発殴りたい……)
「それとさ、演説って何分喋るのかな?」
「過去のデータから言えば、二十分前後でしょう」
「……二十分……飴舐めたら駄目だよね?」
「駄目に決まってるでしょ!!」
鈴木は自分の頭の血管が切れる音が聞こえたような気がした。
「そうなんだ……なら、ガムは?」
ぶちっ
「ガムも駄目です!それからグミも駄目ですからね!!」
「まだ何も言ってないんだけど……」
「いいえ、言おうとしましたよね、絶対に!」
「ばれてた……」
神崎は肩を竦めて小さく笑った。




