第26話 最後のお願い
選挙戦最終日、午後七時。
中核都市のターミナル駅前は、もはや政治の演説会場ではなく、巨大なロックフェスティバルのアリーナと化していた。
歩道橋の上は人の重みでたわむのではないかと思えるほど群衆が集まり、街宣車が見える周囲のビルでは、窓という窓に人影があった。
テレビ局の中継カメラや報道陣の望遠レンズが、一斉に街宣車へ向けられていた。
警備の警察官たちの怒号は聴衆のざわめきにかき消されていた。
聴衆の多くが掲げているのは、これまでの選挙のようなプラカードではない。
神崎の顔が大きくプリントされた、まるでアイドルの応援うちわのような特製のグッズだ。
中には神崎の名前入りの法被を着た女性たちの姿も見えた。
街宣車の上には民自党の党幹部が並んでいた。
三井、品川、有賀。
つい先程まで、彼らは最後のお願いを訴えていたところだ。
仕立ての良い紺のスーツの袖をまくり上げ、聴衆に向けてゆっくりと両手を掲げた神崎が現れた時、無数のフラッシュが夜の駅前を昼間のように白く染め上げ、駅前を埋め尽くした数万人の地鳴りのような大歓声が夜空を震わせた。
連日の過密日程をこなしてきたはずなのに、その顔には疲労の色一つ見つけられなかった。
そこにいたのは、いつもの飄々とした神崎だった。
神崎はマイクを両手で強く握り締め、低いが、驚くほどストレートに鼓膜を刺す声で語り始めた。
「この十二日間、応援演説をしてまいりました。誘拐もされました」
笑いが駅前の空気を震わせた。
「その中で、気づかされたことがありました。人は経験して初めて分かることがある。当たり前だと思っていたことが、実は違った。私はこの選挙で、多くの人に支えられていることを改めて知りました。三井さんには未熟な私を支えて貰っています」
後に並んでいたそれを聞いて、三井は面映ゆそうにしている。
「品川先生は小姑根性丸出しで、私の知らないことを、いつも厳しく教えてくれます」
(こ、小姑……)
品川はこめかみに青筋を浮かべながら、それでも笑顔を崩さなかった。
「有賀先生は、家事コンテストで鍋蓋シンバルで盛り上げてくれました」
渋い表情を浮かべかけた有賀だが、すぐに張り付けたような笑みを振りまいた。
ここで反論する愚行を犯さないだけの政治家の理性は残っていた。
神崎は背後を振り返り、
「ありがとう。支えてくれて、ありがとう。……他の政党にも、よく考えられた立派な政策があります。もちろん、私たち民自党にも、実現したい政策があります。でも、どれほど立派な政策を掲げても、支え合う気持ちや感謝を忘れた政治では、人を幸せにはできないと思うんです」
神崎は一旦言葉を切り、大きく息を吸う。
そして、一段と声を大きくして
「誰もがお腹いっぱい食べられて、明日の食卓で笑い合える。私は、そんな国にしていきたい!」
神崎の演説を遮るかのように、どこからか声がした。
「そんな理想だけの綺麗ごとで政治ができるかっ!」
ざわっ
ざわつく周囲。
「確かに綺麗ごとかもしれない。けど、これからこうしたいという理想を持つからこそ、頑張れる。理想がなければなにを指針にして頑張ればいいのか……私は語れない理想がないよりも、こうしたいと語れる理想を持っている。理想を語った人たちは、最初は夢想家だと笑われました。それでも、諦めずに歩き続けた人がいたから、社会は少しずつ変わってきた。だから私も、笑われても理想を語り、諦めずに歩いていきたい」
神崎は細かな数字も、耳触りのよい公約も並べなかった。ただ、自分の信念と覚悟だけを、まっすぐに訴えた。
パラパラと小さな拍手が次第に大きな拍手となり、地を揺るがすようなうねりになっていった。
すっと、神崎がすっと片手を上げると、鳴り止まなかった拍手が波の引くように収まり、駅前に静けさが戻った。
「皆さん。今回の選挙でお願いがあります」
「なに?」
聴衆から女性の声がかかった。
「我が党に投票してくれるのは、嬉しいです。しかし、ただ、何となく民自党に投票することだけは、しないでください。自分で考えて投票してください。頼まれたからではなく、このひとなら、この党ならと任せられると思ったところに投票してください。そして、自分で考えて投じた一票の重さを私たち、政治家に受け止めさせてください!お願いします!」
民自党の総理大臣が、民自党の最高責任者が、民自党への投票をお願いするのではなく、しがらみや依頼をされたからではなく、自分で考えて投票してくれと言っていた。自分で考えての投票であれば、民自党でなくとも構わないと。その矛盾に、誰一人として疑問を挟まない。いや、その矛盾こそが、この熱狂の燃料だった。
「総理!」
「孝ちゃん!」
「頼むぞ!」
「神崎ちゃん!」
という叫び声が四方八方から飛び交い、割れんばかりの拍手が駅前のコンクリート壁に反響した。
演説を終えた男がマイクを離し、再び両手を挙げた時、会場のボルテージは最高潮に達した。彼が右手を振れば右側の群衆が揺れ、左手を振れば左側から歓声が上がる。それは政策への支持ではなく、一人の「総理」に時代を委ねようとする、大衆の強烈な熱望の姿そのものだった。
パトカーに先導され、神崎が乗った黒のセダン車が東京に向け、高速を走っていた。
セダンの後部座席では疲労困憊といった神崎がシートにぐ ったりと身を沈めている。
助手席の鈴木はバックミラーで神崎の様子を一度、盗み見ると、再度、モバイルを打つ指を動かした。
鈴木の経験上、かつてないほどに胃が痛み、胃薬を消費した選挙戦だった。
「鈴木、疲れたよ」
神崎が情けない声を上げる。
「お疲れ様でした」
「明日は日曜日だよね。緊急時以外は休日だよね」
「投票日です」
「……そうだった……夜、地元の選挙事務所に顔を出して、結果がでたら万歳して解散でいいよね」
鈴木はくるりと振り返って、神崎を見た。
「貴方は総理です」
「うん」
「そんな生ぬるいわけないでしょう!妄想は大概にしてください。明日は、党本部の開票センターに二十一時頃入っていただきます。その後、記者会見等があり、公邸へは日をまたいでからとなります」
「……」
「ついでに言いますが、代休もありません」
「嘘……」
神崎は力なく天井を見上げた。
「鈴木」
「頑張ってください」
「鈴木、エネルギーチャージのハーゲンダッツ食べたい」
鈴木は一拍置いて答えた。
「トマトサラダで我慢してください」
「鬼ーっ」
神崎の情けない悲鳴を乗せた黒いセダンは、東京へ向けて夜の高速道路を走り続ける。
十二日間に及ぶ選挙戦は終わった。
だが、総理の一日は、まだ終わっていなかった。




