第25話 総理の帰還
赤煉瓦倉庫の片隅で、がっしり体型の男と中肉中背の男が、ひそひそと頭を抱えていた。
背後では、椅子に縛り付けられた神崎が、
「ねえ、そこの窓、少し開けてくれない? 埃っぽくて喉がイガイガしてきたんだけど」
と言っている。
「……おい、本当にこいつ、あの『神崎総理』なんだよな? 影武者か何かじゃないのか?」
「知るかよ! メールで送られてきたスケジュール表通りだったじゃないか、顔だってテレビのまんまだろ!」
「そうなんだが……」
神崎の緊張感のない態度に犯人たちは完全にペースを乱されていた。
「連絡して、確認した方がいいんじゃないか?」
「……」
「ついでに、身代金を要求しろよ。俺たちへの報酬だ」
「そうだな……」
中肉中背の犯人が胸元からスマートフォンを取り出した時、
ブブブブ……
着信を告げた。
「手間が省けた……」
にやりと笑い、通話に切り替えた。
『おい、話が違うぞ!』
相手の焦ったような声が流れてきた。
くぐもって聞こえるのは、人目につかない場所からかけているからだろう。
「なにがだ?あんたは誘拐を望んでいただろう?」
『馬鹿なことを言うな!私が指示したのは誘拐未遂だ!」
「同じことだ。俺たちはあんたの希望を叶えた。その手間賃を貰おうか」
『なに馬鹿なことを言っている……』
「馬鹿なことじゃないさ。……そうだな、十億……」
ガチャン。
ツーツーツー
「ちっ、切りやがった。まぁ、いい。切り札は俺たちが握っているんだ」
「ああ。もうすぐ俺たちは金持ちだ」
お互いに顔を合わすとニヤリと笑った。
「あのさ……」
「な、なんだ」
「悪銭身に付かずって知ってる?」
「だ、黙れ!さっきから……」
バンッ!
轟音とともに破城槌の一撃で鉄扉の施錠部分が破壊され、扉が勢いよく内側へ開いた。
「動くな! 警察だ!」
犯人のスマートフォンが発した電波を頼りに、特殊部隊はすでに倉庫の周囲を包囲していた。
閃光弾の眩い光と煙の中、突入してきたのは漆黒の装備に身を包んだ県警の特殊部隊と、鬼の形相をしたSPたちだった。
「動くな! 武器を捨てろ!」
「うわあっ!?」
スマートフォンが手から落ちた。
パニックに陥った犯人ふたりは、何の反撃も許されないまま地面に伏せられ、瞬く間に手錠をかけられた。
「総理! ご無事ですか!」
「あ、うん。大丈夫。ただ、埃で鼻がちょっと……ぶしゅっ!」
間一髪で救出された神崎は、呑気にくしゃみをひとつした。
倉庫内は県警の警官とSPが忙しなく動き、監禁現場として写真や物的証拠などを集めていた。
神崎はSPからスマートフォンを受取り、鈴木に連絡を入れていた。
スマートフォンの向こうにいる鈴木の鬼のような形相が目に浮かんだ。
『当り前です。総理、罰です。明日から三週間、特製トマトサラダです。覚悟しておいてください』
「ええーっ!?」
神崎は思わず悲鳴を上げた。
そばに立っていたSPが、何事かと神崎へ目を向けた。
「総理、大丈夫ですか」
「ううん……明日から地獄……」
黒のセダンが回され、出発の準備ができたとの連絡が無線で入った。
翌日。
神崎が誘拐された直後に予定されていた応援演説は、全国から注目を集めていた。
誘拐された神崎が救出された直後の応援演説。
注目度は高い。
神崎は応援演説に入るのか、入らないとき、誰が代役にたつのか。
市民館の大ホールの壁は杉がふんだんに使われ、視覚的な温かみと優れた音響反射を両立させていた。檜の無垢材が使われている舞台は黒い特殊塗装を施されている。
席はとうに足りず、通路という通路は肩を寄せ合う聴衆で埋まり、最後方の扉からはみ出た人々が首を伸ばして舞台を凝視していた。
客席の中央と壁際を陣取るのは、脚立を立てたカメラマンたちの黒い群れだ。レンズの放つ冷たい光沢と、全国紙や地元局の記者たちが固唾を呑んで開始を待っている。
それらが混ざり合い、会場に独特のピリピリとした緊張感を与えていた。
応援演説に姿を見せたのは、神崎の父・大吾だった。
舞台の上には、緊張した小柄な女性候補者と悠然とした大吾の姿があった。
政界を引退し、一切表舞台に立たなかった大吾にマスコミは喰いついた。
大吾は舞台中央へ進み、ゆっくりと片手を上げた。
無数のフラッシュが白い壁となって舞台を覆い、シャッター音が激しい雨のように会場へ降り注ぐ。
大吾がマイクを握った。
「お集まりの皆さん――」
低く、驚くほどよく通る声だった。
ざわめきがぴたりと止み、水を打ったような静寂が広がる。
大吾は聴衆一人ひとりの顔を確かめるように客席を見渡し、不敵な笑みを浮かべた。
「私が、神崎孝一の父です」
会場がどっと沸いた。
舞台袖で見守っていた鈴木は、思わず息を呑んだ。
名乗っただけで、聴衆の心を一瞬にして掴んでしまった。政界を退いた今も、その力はまったく衰えていない。
深々と大吾が頭を下げた。
「息子が皆さんにご心配をおかけしました。父親として、まずお詫び申し上げます」
(凄い……)
緩急の付け方絶妙だった。
舞台を見ていたそのとき、鈴木の隣から低い声がした。
「まったく、やり過ぎだ」
「大先生ですから」
鈴木が答えると、隣の人物が小さく笑った。
黒く磨かれた革靴が、舞台へ向かって踏み出される。
大吾が片方の眉を上げた。
「もっとも、本人は今ごろ、心配をかけた自覚もなく腹を空かせているでしょうが」
笑い声がホールに満ちた。
「来たか。遅いぞ、愚息」
「酷いな、父さん。誘拐されてたんだよ?」
「何を言う。老人に働かせるんじゃない」
大吾は神崎へマイクを手渡した。
「遅くなりました。ご心配をおかけして、すみません」
神崎が頭を下げた瞬間、聴衆のボルテージは最高潮に達した。




