第22話 猫に誘われた総理
鈴木の胃は、その日死んだ。
(大先生……なぜですか……)
七十近い大吾は背が高く、がっしりとした体格でスーツがよく似合っていた。政界を引退した今でも、影響力を持っていた。その横には鈴木の父、宗助が当時よろしく人の良さそうな顔をした秘書として付き従っていた。
(なぜ、ここの親父がいるんだ……)
宗助は鈴木を見ると、にやりと意味ありげに笑った。
「坊ちゃんに、いいように振り回されているそうじゃないか、雄二」
「そうなのか?それはすまないな。愚息が迷惑をかける」
「い、いえ、大先生そんなことは……親父、親父はなぜここにいるんだ?」
「なぜって、おいおい、雄二。政治家の側には常に秘書が付き従う。忘れたわけではあるまい?」
「大先生は引退されたじゃないか」
「お前はまだ、詰めが甘いな。いいか、坊ちゃんの代わりをするんだ。大先生一人が泊まったら、おかしいだろうが。そこを考えなかったとか言うんじゃないだろうな。首席秘書官が」
「ぐっ」
「相手が内部の人間なら、秘書が一人では絵にならん」
「その辺でいいだろう。奔放な息子のかじ取りを、雄二君はよくやってくれていると思うぞ」
鈴木があたふたと父親たちの相手をしているとき、
南鉄なら駅前の菩薩像前広場での神崎の応援演説が万雷の拍手喝采のなか終了した。
総理である神崎は、聴衆に笑顔で手を振りながら、商店街の端に待機している黒塗りの送迎車へ向かうため駅前商店街の中を候補者と挨拶しつつ歩いているところだった。
以前のようなことが無いように周囲は地元警察とSPによりものものしい警備体制が敷かれていた。
連日の応援演説に神崎は疲れも見せず、
「皆さんありがとう!」
と無邪気に応えている。
にゃぁ……
車に乗り込む直前、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。
神崎はきょろきょろと辺りを見回した。
にゃぁ。
神崎の視線が鳴き声のした菩薩像前広場から「東向商店街」の脇にある薄暗い路地へと向く。
目を凝らすと、そこには、自宅で飼っている愛猫「だいちゃん」にそっくりなハチワレ猫が佇んでいた。
「あ、だいちゃんに似てる……」
神崎の意識は一瞬で政治から猫へと切り替わった。
SPのリーダーは周囲を鋭く警戒していたが、演説が無事に終わったことで、現場にほんの一瞬だけ
安堵のエアポケットが生じた。
SPが次の移動ルートの確認や、車両のドアを開ける合図のためにわずか二〜三秒目を離した隙に、神崎は吸い寄せられるようにふらふらと歩き出した。
猫は神崎をからかうように、誘うように、振り返りながら細い路地の奥へと歩いて行く。
「だいちゃん?」
神崎はスーツ姿のまま
「待って、おいでー」
と無邪気に追いかけていった。
一歩、二歩と路地に入るだけで、駅前の喧騒が嘘のように消えていく。
古民家の格子戸が並ぶ、車も通れないほどの狭い路地のクランクを曲がった瞬間、神崎の姿はSPたちの視界から完全に消えた。
「あれ?ここどこ……?」
と神崎は立ち止まった。
猫もいない。
「総理、いいですか、単独行動は厳禁です。もし単独行動をしたら、だいちゃんとの接触を三週間禁止のうえ、毎食、トマトサラダです」
脳裏にで鈴木の冷徹な声が蘇り、般若の顔をした鈴木が思い浮かんだ。
(これは、ヤバいかも・・・・・・)
つーっと冷たい汗が神崎のこめかみから流れた。
戻らないと怒られる……いや、もう完全に怒られる。
と、焦っていたその時、
背後の薄暗い民家の隙間から、息を潜めていた犯人グループが音もなく現れた。
「えっ、誰?お迎え?」
神崎は抵抗をする間もなく、後ろから腕で口を塞ぎ、その隙に薬剤を含ませた布を押し当てた。
すぐに神崎の意識が混濁した。
犯人たちは神崎を抱えた時、スーツの胸ポケットから神崎用のスケジュール表がはらりと落ちる。
短時間が勝負だったため誰もそれに気がつかなかった。
犯人たちはあらかじめ路地の裏口の狭い生活道路に用意していた黒のワンボックスカーへ神崎を押し込んだ。
スライドドアが勢いよく閉まり、黒のワンボックスカーは一瞬で走り去った。
「総理!?……総理がいない!」
騒然となった。
無線が一斉に飛び交う。
「護衛対象ロスト!護衛対象ロスト!」
わずか数十秒。
そのわずかな時間に警護対象がいなくなった。
完全なる失態。
異変に気づいたSPたちが血相を変えて路地へ飛び込んでいく。
路地を駆ける一人のSPが、足を止めた。
革靴のすぐそばに、一枚の紙が落ちている。
神崎専用のスケジュール表だった。
「総理ッ!!」
SPは地面に落ちていた神崎専用のスケジュール表を拾い上げた。
神崎の姿はなかった。
遠ざかる車のエンジン音だけが、静かな古い路地に虚しく響いていた。
慌てふためくSPの姿に鈴木は嫌な予感がした。
「なにがあったんですか?、総理はどこです!」
鈴木は鋭い声を上げた。
その様子を神崎が追いかけていたハチワレ猫が塀の上から眺めている。
慌ただしい足音と必死に探す姿。
ハチワレ猫が「にゃぁ」と一度だけ鳴くと、何事もなかったように塀伝いにどこかへ消えていった。




