第19話 忍び寄る影
応援演説で地方を巡る七日目。
今日も予想を超える人波が押し寄せ、警備計画は開始直後から修正を余儀なくされていた。
神崎は変わらず笑顔で手を振っていたが、連日の過密日程で疲労は隠せない。
そして、その疲れはSPや秘書官・鈴木にも等しく積み重なっていた。
応援演説先の宿泊先のホテル。
ロビーの天井は高く、柔らかな光を放つ印象的なシャンデリアが輝く開放的な造り。高い天井にあしらわれた和のらんま格子が、高級感の中に落ち着いた和のスケール感をもたらしていた。ロビーには上質なソファやテーブルが贅沢に配置されている。
「総理、こちらへ」
総支配人とチーフバトラーに案内され、SPに警護された神崎は華やかなレセプションを完全に素通りし、専用エレベーターで最上階のスイートルームへ直行する。
部屋に入ると同時に、SPたちが窓の遮光カーテンの隙間やクローゼットの安全を確認した。
神崎が重厚なソファに深く腰掛けたのを見届け、鈴木は、部屋の隅で静かに一礼して待機していたホテルの総支配人とチーフ・バトラーに向き直った。
鈴木は内ポケットから使い慣れた万年筆を抜き、用意された宿帳の『宿泊者氏名』の欄に、神崎に代わって滑らかな筆致でその名を代筆していく。
宿泊名簿へのサインを終え、万年筆を胸ポケットに収めた鈴木は、対面するチーフ・バトラーに視線を戻した。
「明朝の出発は午前七時十五分。車は地下の専用ロータリーに迎えに来ます。ホテル側の動線スタッフ、およびエレベーターの占有管理は七時時五分から徹底をお願いします。それから――」
鈴木は声を落とし、チーフ・バトラーの目を見つめた。
「総理はこれ以降、部屋から出ることはありません。また、来客の予定もありませんので、外部から連絡や訪問があった場合には、私へ連絡をいただけますか」
チーフ・バトラーは一切の表情を崩さず、深く頭を下げた。
「畏まりました、秘書官。すべて、私どものバトラーが完璧に手配いたします。それから、鈴木秘書官、こちらが届いておりますが、いかがいたしましょうか」
チーフ・バトラーが慇懃無礼な手つきで、一通の封筒をトレイの上に載せて差し出した。
ホテルのロゴは入っていない。ただ、神崎の本名だけが、太い万年筆の文字で殴り書きされていた。
「――これは?」
鈴木の声が、わずかに低く尖る。
背後SPのたちの空気が一瞬で凍りついた。
「本日、フロント気付で届いた郵便物でございます。総理のチェックインに合わせて、お部屋へお届けするよう申し付かっております」
チーフ・バトラーは表情一つ変えない。まるでそれが、注文されたルームサービスの一品であるかのように平然と言ってのけた。
「申し付かるとは?」
鈴木が尋ねる。
「夕方、お電話がございました。お電話の主は、ご到着予定時刻とスイートルームへのご案内まで正確に把握しておられました」
銀のトレイに載せられた差出人不明の封筒。
封筒の消印は二日前。
(まただ……)
秘書官の背筋に、冷たいものが走る。
念のためにSPへ預け、危険がないかを確認するように命じた。
一歩前に出たSPが、すかさず小型の特殊LEDライトを封筒の裏から照射した。
透過した影に、金属片や粉末の塊は見当たらない。
ただ、数枚の厚手の紙が重なっているシルエットだけが浮かび上がった。
SPが安全確認を終えたのを見届けてから、鈴木はペーパーナイフで封を切った。封筒から厚手の紙を取り出した。
どこにでもある紙に書かれているのは、神崎の今日の行動。
神崎の予定は警備の関係上、前日まで知らされていない。
しかも、宿泊先は極秘だった。
それなのに、先回りをするかのようにこうして、宿泊先に差出人不明の手紙が届く。
偶然にしてはおかしい。
封筒の消印についている集配局印は、届いた全ての封筒で違う。
「……」
鈴木は眉を寄せた。
「あっ、鈴木。ちょっと、ちょっとこっち来て」
場の空気に不似合いな神崎の明るい声。
(……空気を読むということを学んでください、総理)
「どうされました?」
「大根ウルフがあるんだよ」
神崎は目の前に白大根に、血走ったような鋭い目と大きく裂けた口から何本もの牙が覗く大根ウルフをぶら下げて見せた。
大根ウルフに鈴木は目を見開いた。
イメージダウンになるからと官邸に置いてきたはずだ。
「総理、それ、どこにありました?」
「スーツのポケットの中」
「っ……」
いつだ。いつ入れられた……?
スーツを脱いだのは、街頭演説の時と講演会場の控室でけだった。
そして、スーツに触れることのできる人間は限られていた。
候補者とそのスタッフ、SP、神崎の秘書たち……
だが、候補者とそのスタッフとSPは大根ウルフのことを知らない。神崎の秘書たちも、街頭演説後には東京へ戻っているはずだった。
見えない影にがじわじわと神崎を包囲しているようで、鈴木は底知れない不気味さに拳を握り締めた。
「鈴木、顔色悪いよ?」
「総理……」
鈴木は神崎を見つめた。
犯人は一体、どこまで近づいている。
神崎は、その危険にまるで気付いていない。
それが何より恐ろしかった。




