第18話 誘拐未遂
「――今日は応援演説に集まってくれて、ありがとうございました。民自党の候補者に入れてくれると嬉しいけど、最後は自分で考えて、この人ならという人に投票してください」
カシャカシャ
シャッター音の嵐と地鳴りのような歓声が響き渡った。
神崎の隣にいる候補者は聴衆のあまりの多さに顔を硬直させていた。
地方演説、四日目。
神崎は北日本の一都市を訪れていた。
独特な形の巨大な赤茶色の木造門がそびえ立っている。伝統的なシンボルは観光客の撮影場所としても有名だった。
その門を背後に演説を行なった神崎は選挙カーから降りた。
集まった聴衆は「本物だ!」「こっち向いて!」という悲鳴に近い声を上げる。
神崎は手を振り応えていた。
「押さないでください! 後ろに下がって!」
とメガホンで声を枯らす県警の若手警察官。
聴衆にもみくちゃにされながらも、神崎は差し出された無数の手に笑顔でハイタッチを返し、支持者の心を一瞬で掴んでいく。
「神崎ちゃん」
「孝ちゃん」
「はい、なに?」
「いや〜ん、あいそらしい」
「カワカッコいいっ」
「総理、今日はありがと」
「生で見る方が数倍ステキ」
興奮する聴衆とは反対に、神崎の斜め後ろにいる鈴木は腕時計をチラリと見る。
(移動時間まであと二十五分か。少し早めに動いた方がいいか……)
県警から派遣された警官たちが必死に組んだスクラムが、押し寄せる群衆の圧力でミシミシと歪む。
「下がってください! 下がって!」
鋭い視線を周囲に走らせるSPの手が、無意識にスーツの合わせ目に伸びる。
無数のスマートフォン、興奮した聴衆。
ビルが建ち並び、駅から繋がっているため、死角が多すぎた。
その熱狂の渦が巻くロータリーを抜け、神崎へ向かって、その人物はただ一人、不穏な笑みを浮かべて歩みを進めていた。
神崎は予定通り、駅前のロータリーから商店街へと集まった人々に手を振り、声掛けに応じながら移動していた。
SPや地元の警官が押し寄せる人々から必死で神崎をガードしている。
予想以上の人波。
身動きが取りづらい状況に鈴木は神崎から遅れ
だした。
(予測を間違えた……)
鈴木が後悔し始めた時、
「総理!神崎ちゃん!」
ひとりの三十代の女性が縁起物の達磨がモチーフで、漆塗のひげ、金箔、友禅柄などの県の伝統工芸が全身にデザインされているゆるキャラを手にしていた。
「押さないで、押さないでください」
警官が必死に押し止めようとしているが、集まった人々は神崎をよく見ようと制止も効かない。警官の繋いだ手が一瞬離れる。
その隙に、数人が中へと入った。
SPと警官が近づくのを未然に防ごうと動き、護衛の体制が崩れた。
ゆるキャラを持った女性が神崎に近づくのを慌て反対側にいたSPが止めにはいる。
混乱する現場。
人が入り混じり辛うじて二名のSPが神崎に付いている状況でそれは起こった。
警護対象である神崎のガードが、甘くなったのを見透かしたかのように
「!?」
神崎は誰かに強い力で腕を引っ張られた。
そのまま人の中を連れられるように歩かされる。混乱している場所で気に留める者は少ない。
SPが追いかけようとするが、集まった人々が行く手を遮る。
「くそっ」
鈴木は悪態をつく。押し寄せた人々に己の考えの甘さを実感していた。
(あの人の人気を甘くみていた……とにかく、総理は……!?)
神崎がふらふらと予定外の場所に向かっているのが垣間見えた。
(なにをして……SPはどこだ!)
このままでは神崎を見失うと鈴木は焦るが、自分自身も身動きが取れずにいる。
焦燥だけが積もった。
神崎は引かれるままに足早に歩かされていた。
神崎の腕を掴む手には、力が込められ、スーツの上から握られているにもかかわらず、痛みが走る。
「ち、ちょっと、どこに行くんだい? こっちに移動する予定はないはずだけど」
神崎が問いかけても、掴んでいる男は無言のままだった。周囲は喧騒と人の波が絶えない。必死の抗議も、ざわめきにかき消されてしまう。
(――ああ、きっと鈴木が言っていたシークレット移動ってやつだ。たまにこういう、サプライズみたいな過密スケジュールを組んでくるんだから、あの鬼秘書は)
神崎はそんな風に呑気に納得していた。
ようやく人の気配が薄れ、人気のない搬入口付近に差し掛かったとき、黒塗りのワンボックスカーが静かに停車しているのが見えた。
エンジンの低音が腹に響く。
(無駄なアイドリングは環境に良くないよ。鈴木に注意しとかないと)
神崎がそう思った瞬間、背後から不自然なほど強く背中を突き飛ばされた。
開け放たれたスライドドアに向けて、勢いよく体が放り出されそうになった。
その時だった。
「あやっ?」
神崎の足先に、運悪く――いや、運良く落ちていた小さな石ころが引っかかった。
ドジな子猫のような情けない声を上げ、神崎は盛大に躓いた。
「ひゃっ!」
バランスを崩した神崎の体が、車内へ飛び込むどころか、地面に向かってダイブする。しかし、背中を強く突き飛ばしていたはずの男も、その予期せぬ急停止に足をすくわれた。
「なっ……!?」
男は神崎の体に絡まるようにして前のめりに転倒し、アスファルトの上に無様に突っ伏した。
「……あ、あれ? ごめんごめん、ちょっと転んじゃって。大丈夫?」
神崎は地面からむくりと起き上がり、ズボンの膝についた埃をパンパンと叩きながら、転倒した男に手を差し伸べた。
後方から慌ただしく追いかけて来る足音がする。
「くそっ」
男は神崎をその場に残してワンボックスカーの運転席に飛び乗った。
キキッ
タイヤの空回りする音がしたかと思うと、物凄い勢いでワンボックスカーが発車した。
「えっ、まさかの置いてけぼり?」
呆然と見送る神崎に追いついた数名の屈強なSPが取り囲んだ。
「護衛対象、確認しました」
無線で連絡する。
追いついた秘書の鈴木が、顔面蒼白どころか、もはや土気色の顔で現れた。
「……総理ッ!!」
鈴木は心臓が口から飛び出るのではないかと思うほどの激しい動悸を抑え、震える指で眼鏡の位置を直した。
その瞳には、今まさに起きた《誘拐未遂》という事態への戦慄が宿っていた。
「え? ああ、ごめん鈴木。石ころ踏んじゃってさ。置いてけぼりになっちゃったよ。でもさ、急ぎすぎだよ。車に乗るならもっと優しくエスコートしてくれないと」
(こ、この人は、自分が今、誘拐されかけたことに死ぬまで理解しないつもりなのか?フツウならわかるだろう……!)
鈴木はふらりと目眩を覚えながら、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
手は無意識に胃薬を探していた。
とりあえず、神崎の無事に息を吐くと、鈴木は震える手でスマートフォンを取り出した。
警備責任者に至急の増員と、犯人の徹底的な洗い出しを指示するメッセージを打ち込み始めながら、ふと、嫌な予感がした。
(今回は未遂だったが、これで終わったのか……
また、仕掛けてくることは……?)
見えない敵の悪意が、静かに動き始めている――そんな予感がした。
胃の底が、すっと冷えた。
選挙戦よりも遥かに過酷な戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




