第1話 神崎 孝一という男
永田町という魔窟から逃れてくるたび、神崎 孝一は生き返る心地がした。
ここは都心から首都高速を使い車で一時間足らずの中核都市。高台という立地からは青く美しい海を臨むことができた。
格式高い老舗が並ぶショッピングストリートは、彼を「先生」ではなく「神崎ちゃん」や「孝ちゃん」等と親しみを込めて呼ぶ、愛すべき有権者たちの地元でもある。
「はい、孝ちゃん回して回して! ガラガラ回して!」
「おっ、任せてよ。僕、こういうの意外と引きが強いんだから」
街の商店街の春の福引き大会。
眩しい青空と新緑の街路樹を吹き抜ける爽やかな風に集まった人々も笑顔で楽しんでいた。
紅白幕が張られた特設テントの前で、神崎は仕立ての良い高級スーツの袖をまくり、本気で木製のガラポン抽選器を回していた。
すっきりと通った高い鼻筋とシャープな輪郭、女性のハートを射抜く涼しげな目元。そんな容姿端麗な国会議員が、いまや鼻息も荒くガラポンに挑んでいる。
ガラガラ……
と小気味よい音が響き、コロンと赤い玉が転がり出た。
「あっ、三等! おめでとう、商店街で使えるお買い物券五千円分!」
「やったあ! これで今夜の夜食やお菓子買うよ!」
両手を上げて無邪気に跳びはねる四十代前半の国会議員に、周囲の女性陣たちから「可愛い!」と黄色い歓声が上がる。
出世欲はゼロだが、こういう場所でのサービス精神だけは無駄に旺盛だった。
「先生、お時間です。もうそろそろ行かなくてはなりませんが……」
背後から、地元で合流した私設秘書の鈴木 雄二から声がかかった。
白皙で敏腕秘書と名高い鈴木は眼鏡の奥の目を光らせ、秒単位で組まれたスケジュール表を睨みつけている。
「次は山手老人会の集まりです。この急坂を歩いて登らなければならないんですよ。早くしないと間に合いません。まったく、永田町じゃ今頃、派閥のドンたちが裏金問題のリーク元を探して血眼になってるっていうのに……商店街の五千円券でガッツポーズなんてしないでください」
「いいじゃないか、鈴木。永田町の闇より地元の人の笑顔だよ。よし、山手まで競争――」
「あーっ! 神崎ちゃんじゃないの!」
背後から放たれたドスの利いた大音声に、神崎の身体がピクッと強張った。
振り返ると、派手なヒョウ柄のチュニックを身にまとった、自称「元町のマドンナ」こと乾物屋の老主人、トシエが、ものすごいスピードで突進してくるところだった。
「ちょっとトシエさん、喜寿迎えたんだから、走ったら危ないって」
「いつ見ても二人揃うと目の保養だねぇ……って、そんなことより神崎ちゃん、テレビ見たわよ! なに、次の内閣で大臣の椅子を断ったって本当!?」
ガシッ、と両腕を掴まれる。
神崎の長身が、小柄なおばちゃんの腕力に完全にロックされた。
「え? ああ、うん。だって大臣になると忙しくて、地元のお祭りにも来られなくなっちゃうし。僕、そういうの向いてないからさ」
「もったいない! うちの孫なんてね、『神崎ちゃんが総理大臣になったら結婚してあげる』って言ってるのよ!?」
「トシエさん、お孫さんまだ小学生でしょ……」
「いいのよ、年の差なんて愛があれば! それより、これ持っていきなさい!」
トシエが神崎の手に無理やり握らせたのは、ずっしりと重い最高級の「どんこ椎茸」の袋だった。
「これ食べて、もっとしっかり頼むわよ! 国会議員なんてね、顔が良くて素直な神崎ちゃんが一番なんだから。小難しい古タヌキ親父たちに負けちゃダメよ!」
「ありがとう、トシエさん。お味噌汁に入れていただくね」
満面の、それこそ一億総アイドルと呼べるほどの極上スマイルを返す神崎。
トシエはそれだけで胸がいっぱいになったのか、
「じゃあね!」
と風のように去っていった。
「……神崎ちゃん」
鈴木が、深い、深い溜息をついた。
その手には、いつの間にか渡された椎茸の袋が収まっている。
「先生、その天然のタラシスキルを、どうして永田町の根回しに使えないんですか?」
「だって、永田町のおじいちゃんたちに微笑みかけても、椎茸くれないし」
「そういう問題じゃないんです! ほら、時間が押してますよ。坂道、全力で走ってください!」
高級住宅街・山手へと続く急な坂道を、スーツ姿の神崎と、鞄とどんこ椎茸の袋を抱えた鈴木が全力で駆け上がっていく。
その背中を、横浜港からの五月の潮風が追いかけていった。
急な坂道をぜぃぜぃと息を切らせて駆け上がり、ようやく辿り着いたのは、この街を一望できる丘の上に建つ山手地区の集会所だった。
「お、孝一が来たぞ!」
「待ってたよ、遅いじゃないか!」
ガラリと引き戸を開けた瞬間、熱気と温かい拍手が神崎を包み込んだ。
山手老人会『白寿会』の集まりだ。
普段は元町商店街の女性陣に囲まれることが多い神崎だが、ここ山手の老人会には、かつて日本の高度経済成長を支えたような頑固一徹な高齢男性たちの集まりだった。
「皆さん、お待たせしてすみません! 途中で乾物屋のトシエさんに捕まっちゃって、こんな立派などんこ椎茸を貰ったんで……」
息を整えながら、神崎が鈴木の持っている椎茸の袋を指して言うと、前列に陣取っていた元造船会社幹部の厳格そうな老人、源三がカカカと笑った。
「トシエのやつ、相変わらず抜け目がないな! おい神崎、そんなもん持ってないでこっちへ来い。お前の顔を見に集まったんだ」
神崎は「失礼します!」と育ちの良さそうな綺麗な所作で畳の上にペタリと座り込んだ。
四十代前半という立派な大人でありながら、この街の長老たちの前では、まるで実家に帰ってきた孫のような顔になる。
「孝一、お茶おあがり。走ってきたんだろ?」
「ありがとう、茂さん。わぁ、冷たいお茶だ」
茶の湯の先代家元、茂に差し出された湯呑みを両手で持ち、美味しそうに喉を鳴らす神崎。
茂が懐かし気に、
「孝一のお父さんも、おじいさんも、ここで茶を飲んでいったんだ」
その無邪気な飲みっぷりを見ているだけで、老人たちの目元が自然と緩んでいく。
「それにしても神崎、お前は本当に欲がないな」
源三が腕を組み、わざと難しい顔をして言った。
「新聞を見たぞ。党の要職の打診を蹴ったらしいじゃないか。普通の政治家なら、泥をすすってでも這い上がるチャンスを、お前って奴は……」
「だって源三さん、僕が永田町で偉くなっちゃったら、こうして皆さんとお茶を飲む時間がなくなっちゃうんだよ? そんなの嫌だな。僕はここが一番落ち着くんだよ」
神崎が少し気恥ずかしそうに、はにかんだ笑顔を見せる。
その「素直さ」と「打算のなさ」が、百戦錬磨の老人たちの胸に真っ直ぐ刺さるのだ。永田町で嘘と裏切りにまみれた政治家ばかりを見てきた彼らにとって、神崎の存在は一服の清涼剤だった。
「まったく、しょうがない奴だ。だが、そこがいいんだよな」
「そうそう。下手に偉くなって、テレビで偉そうに言い訳してるあいつらみたいになられたら、俺たちも応援し甲斐がないって。孝一は今のままでいておくれよ」
元医師会会長の野田が、神崎の背中をパシパシと力強く叩く。
「よし! じゃあ孝一が来たことだし、恒例のあれ、やろうじゃないか」
茂が嬉しそうに引っ張り出してきたのは、手書きの得点表がついた『室内ミニボウリング』のセットだった。
「おっ、待ってました! 今日は負けませんよ!」
スーツの上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの腕をまくった神崎は、本気でプラスチックのボールを構える。出世欲はゼロだが、老人たちと本気で遊ぶサービス精神(というか自分自身が楽しんでいる)は健在だ。
「それっ!」
ゴロゴロと転がったボールが、見事にピンをすべて倒す。
「やったーー! ストライク!」
少年さながらに飛び跳ねて喜ぶ神崎に、老人たちから「おおーっ!」「大したもんだ!」と歓声が上がり、まるで孫の運動会を見守るかのような優しい眼差しが注がれた。
集会所の隅で、どんこ椎茸の袋を抱えた鈴木は、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、手元のスケジュール帳に目を落とした。
(……この地元での圧倒的な”孫・アイドル力”。男も女も関係なく、この人の前に出るとみんな顔が綻んでしまう。天性の人たらし、と言えば聞こえはいいですが……)
鈴木は小さくため息をつき、窓の外の空を見上げた。
(永田町という化け物たちの巣窟に、この純粋無垢な『神崎ちゃん』を置いておくのは、やはり奇跡に近い。……まあ、私が死ぬ気で守っているからこそですがね)
「鈴木も一緒にやろうよ! 楽しいよ!」
無邪気に手招きする神崎の声を無視し、鈴木は冷徹に「あと15分で撤収です」と時計を指差すのだった。




