プロローグ 待合政治
内閣支持率は既に危険水域を大きく割り込み、即死水域目前まで迫っていた。
それと連動するように、与党の支持率も下降線を描き、半数を切っていた。
赤坂の喧騒から隔絶された高級料亭『洗心亭』の奥座敷。
庭園のししおどしがコンと虚しい音を響かせる中、室内には、すっぽん鍋の湯気とともに、息が詰まるような重苦しい空気が満ちていた。
春のすっぽんは、冬眠から目覚めて産卵に向け多くの餌を食べるため、秋に並んで栄養を蓄えており非常に美味しい。精力をつけるにはもってこいだ。
しかし、床の間を背にして座る民自党の重鎮たちの顔には、その滋味を味わう余裕など微塵もなかった。
床の間を背にして座るのは、与党・民自党の最高顧問であり、政界のフィクサーとも噂される大河原 宗介。その左右を、幹事長の武藤、そして最大派閥の領袖である有賀が挟んでいる。日本の針路を裏で決めてきた重鎮たちだが、今夜ばかりはその顔に深い苦渋の皺が刻まれていた。
「……出ました。たった今、大手新聞社の世論調査の速報値が入りました」
数秒前、携帯電話を握りしめて部屋を飛び出していった武藤の秘書が、青ざめた顔で戻ってきた。差し出されたタブレット端末を、武藤がひったくるようにして凝視する。その目が驚愕に見開かれ、次いで絶望へと変わった。
「……どうだ」
大河原が、重々しい声で尋ねる。武藤は喉を鳴らし、消え入りそうな声で数字を読み上げた。
「内閣支持率……二一・四パーセント。前回から、九・八ポイントの急落です。ついに二割を切る一歩手前まで来ました。それから、我が党の政党支持率も三・五ポイント下げて、ついに半数を割り込んでおります」
「九・八ポイントだと!?」
有賀が自身の恰幅のいい腹を叩いて立ち上がった。
「一気に十ポイント近く下げおったか! 危険水域どころか、これはもう泥舟が完全に沈没するレベルじゃないか!」
「無理もありませんよ」
武藤が自嘲気味に髪をかきむしる。
「先月は文科大臣が『バカは大学に行かんでよろしい』と記者会見で暴言を吐き、二週間前には法務大臣の学歴詐称……いや、経歴詐称が週刊誌にスッパ抜かれた。極めつけは、一昨日の国交省による統計数値の改ざん発覚です。これだけ三連発で不祥事を揃えられては、国民でなくとも愛想を尽かします」
「あのバカどもめ……!」
有賀が高級な輪島塗の箸をへし折らんばかりの勢いで握りしめる。
「経歴詐称だと? 義務教育からやり直してこいと言いたいわ! おまけに強行採決を連発しおって。国会が炎上するたびに、こっちの胃に穴が空くわい」
重鎮たちが頭を抱えるのには、明確な理由があった。
半年後には、衆議院議員の総選挙が確実に控えているのだ。
現在の選挙区のシミュレーションでは、このまま選挙に突入した場合、民自党は現有議席の過半数を大きく割り込み、野党への政権転落は火を見るより明らかだった。彼らにとって、野党に落ちるということは、これまで築き上げてきた利権や権力のすべてを失うことを意味する。
「このままでは、次の選挙で我々の首も危ない。地元の有権者からは、毎日悲鳴のような抗議電話が殺到しているんだ」
有賀の言葉に、座敷はしんと静まり返った。
コン
ししおどしの音が響く。
誰もが口を開きたがらない中、それまで目を閉じて微動だに せず、会話を聞いていた大河原が、ゆっくりと目を開けた。その眼光は、老いてなお鋭い。
大河原は手元のぐい呑みを干すと、ぽつりと言った。
「……総理を変えるか」
その一言に、武藤と有賀は顔を見合わせた。一瞬の沈黙の後、有賀が深く頷く。
「それしかあるまい」
武藤も、諦めたようにため息をついた。
「あいつは使えんかったな」
「まったくだ。あの看板は色褪せた。次は選挙に勝てるのを選ばんとな」
有賀が吐き捨てるように言い、大河原が小さく鼻で笑った。
彼らにとって、現在の総理大臣など、選挙を乗り切るための「看板」に過ぎない。汚れて見栄えが悪くなった看板は、さっさと架け替える。それがこの永田町という魔窟の論理だった。
「しかし、大河原先生」
武藤が身を乗り出す。
「次を誰にするかです。小手先のすげ替えだと見透かされては、逆に火に油を注ぎかねません。一応、候補としては三人……」
「わかっている。品川 沙織、三井 耕造、そして若手の桜庭 貢辺りでどうだ?」
大河原が名前を挙げる。
「品川と三井ですか……」
武藤が難色を浮かべた。
品川 沙織は、タカ派で鳴らす女性議員だ。発信力はあるが、右寄りすぎて中道層の票が逃げる懸念がある。何より、男社会の重鎮たちにとっては少々扱いづらい。
三井 耕造は、党内の誰もが認める政策通の重鎮だが、いかんせん地味で新鮮味に欠ける。「選挙の顔」としては、支持率を爆発的に押し上げる起爆剤にはなり得ない。
「やはり、本命は桜庭でしょうか」
有賀が言った。
「若手でルックスもいい。弁が立ち、クリーンなイメージもある。今の冷え切った世論をひっくり返すには、彼のような『若き改革者』というパッケージが一番ウケる」
「うむ。総理辞任後の総裁選告示に向け、根回ししとけよ。ドラマを作り、新しい若い力をわが党は選択したと見せるんだ。あいつを神輿に担いで、一気に解散総選挙へ打って出る。これなら、国民は新しい顔に期待する」
大河原が冷酷に微笑む。
国民の怒りを、新総理誕生という「お祭り騒ぎ」でうやむやにする。何度も使ってきた、民自党のお家芸だった。
「よし、では裏で糸を引いて、決選投票まで演出するか。逆転で桜庭が選ばれるようできるよう根回しを始めよう。品川と三井には、次の内閣でのポストをエサに引かせればいい」
武藤が携帯を手に取り、安堵の表情を浮かべた。
これで危機は脱した――重鎮たちは誰もがそう確信し、すっぽん鍋のスープをすすった。
しかし、彼らはまだ知らなかった。
運命のいたずらに阿鼻叫喚することになるなど、この部屋にいる誰も、夢にも思っていなかったのである。
衆議院議員会館の車寄せで四十代前半の男性議員が私設秘書と一緒にハイヤーを待っていた。
議員は紙コップのコーヒーを両手で持ち、ふうふうと息を吹きかける。
「くしゅん!」
くしゃみの反動で、コーヒーがぽたりとコンクリートにこぼれた。
「風邪ですか、先生?」
「う~ん、何だろう……嫌な予感がするね」
「本日の予定ですが、お昼前には地元へ入ります。商店街の福引き大会、その後は老人会の集まりです」
「ああ、そうだったね」
「先生、こういう行事、たまには断ってもいいんですよ」
秘書はスケジュール表を見ながら苦笑した。
「う~ん、でも、みんなに会えるからね」
そう言って、神崎が子どものような笑みを浮かべた。
神崎 孝一は知らない。
自分が数日後、日本で最も忙しい男になることを。
新連載です。本日は2話投稿となります。
笑って楽しく読んでいただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。
リアクションや評価など頂ければ幸いです。




