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第16話 総選挙準備

「総理はその日、うちに来るんだ!」


「いや、こっちの選挙区の方が先だ!」


「総理のスケジュールは、官邸で……」


 第二秘書の山中が仲裁に入る。


「うるさい、秘書は黙れ。こっちは当落が掛かっているんだ!」


「ふざけるな!お前らは総裁選で票を入れなかっただろうが」


「年寄りファーストを知らんのか、この若造どもがっ!」


「お帰りください。皆さん却下です」


 鈴木の声が総理執務室に響き渡った。

 争っていた声がぴたりと止む。

 神崎が総理となってから初めて迎える、任期満了に伴う総選挙。

 民自党衆議院議員は総選期間に神崎の応援の確約を取ろうと毎日、押しかけて来ていた。

 これまでは党の選挙対策本部が主導する戦略的な調整によって厳密に決定されていた伝統的な選挙応援の割り振りだった。それが、今や完全に崩壊していた。

 永田町の古いパワーゲームは、ひとりの秘書によって完全にシャットアウトされたのだった。


 壊滅的だったはずの党の支持率は、神崎の圧倒的な「お茶の間・アイドル力」によってV字回復を遂げていた。

 日本全国の候補者たちが、自らの当落をかけて「神崎総理を我が選挙区へ呼ぶ!」と血眼になって叫び、各派閥の重鎮たちがその応援枠を力尽くで奪い合っていた。


「——却下です。そちらの派閥の領袖がどれほど声を荒らげようとも、総理の体は一つしかありません」


 総理大臣官邸の執務室。

 今や「首相首席秘書官」という、事実上の国政の最高演出家の椅子に座る鈴木は、鳴り止まない陳情の電話を冷徹に捌いていた。

 鈴木の声の冷たさに、神崎は背筋を震わせた。

 神崎は無意識に大根ウルフを自分の前へ置き直した。

 いまや机の上の大根ウルフは大魔神除けのお守りとなっている。

 かつての選挙であれば、党の選対本部が各派閥のメンツや資金力、当選回数を考慮し、泥臭い貸し借りの中で応援日程を「戦略的」に決定していた。

 しかし、鈴木はその古い慣習をすべてゴミ箱へ投げ捨てた。


 これからは官邸主導——否、鈴木主導で、全国の日程を厳密にコントロールしていこうとしていた。

 というのも、応援演説先での神崎のやらかしを危惧しているに他ならない。

 なにをいつしでかすかと考えただけで胃が痛い。

 そのせいで鈴木は慢性の胃痛持ちになった。

 予測不可能、想定外の神崎に鈴木の胃は胃薬なしでは働かないまでになっていた。

 これまでは、薬の飲みすぎはマズいと処方箋や薬剤師が必要な胃薬は諦め、どこにでも売っている胃薬にしていた。が、神崎が総理になって以来、胃薬のランクを上げようかと考え始めていた。いや、考えせざる得なかったのだ。


 鈴木が睨みつけるタブレットの画面には、日本地図とともに、独自のアルゴリズムで弾き出された「神崎やらかし対策・最大化ルート」が冷酷に描かれていた。


「いいですか。有賀派の重鎮の選挙区など後回しです。あのじいさんたちは、総理が笑顔で手を振るだけで勝てるような、ぬるい地方都市に総理を囲い込もうとしている。そんな暇はありません。行くなら女性票が取れる激戦区、多少失敗しても許される地区優先です」


 鈴木の戦略は、合理的かつ冷徹だった。

 激戦区、特に女性有権者の割合が高く、なおかつ野党の強力な候補と競り合っている「都市部のベッドタウン」や「地方で多少何かやらかしても有名人が来た!で許される地区」をピンポイントで狙い撃ちにする。さらに、移動時間、喉のケア、そして神崎が最も輝く「自然体でいられる休憩時間」までを秒単位で計算し、分厚いファイルを編み上げていく。


「鈴木、これ、僕の明日からのスケジュール……?」


 横から、のんきにどんこ椎茸の出汁で作ったスープをすすっていた神崎が、恐る恐る鈴木のファイルを覗き込んだ。その顔は、過密スケジュールを見て完全に引き攣っている。


「北海道から始まって、その日の夜に福岡!? 鈴木、いくらなんでも僕、瞬間移動の超能力は持ってないよ?」


「僕ではなく、私です。飛行機の時間を分刻みで調整しました。移動中に30分の仮眠を取れば、福岡のステージに立つ頃には、あなたの顔の隈は完全に消え、ベストな『笑顔の輝き』を取り戻しているはずです」


「隈って……。僕、もうちょっと地元のみんなとゆっくりボウリングとか卓球したいんだけどなぁ」


「総理」


 鈴木は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、冷たい光を放った。


「あなたが全国の有権者に愛想を振りまき、一議席でも多くもぎ取ってこなければ、この政権は一日で終わります。そうなれば、あなたは大好きな地元の坂道を歩くことすらできず、永田町の古タヌキたちに生涯、身ぐるみを剥がされ続けることになりますよ。……走る準備はできていますね?」


 神崎はスープを喉に詰まらせかけながら、コクコクと激しく首を縦に振った。


 各派閥からの怒号のような圧力をすべて官邸の壁で叩き落とし、鈴木が構築した「神崎総理・全国ドサ回り超厳密スケジュール」。

 この秘書官の完璧なコントロールによって、天然総理を乗せた専用機は、日本列島を揺るがす選挙戦へと飛び立つ準備を整えていた。


「鈴木、せめて専用機のボディに大根ウルフが『総理、頑張れ!』って言ってるイラスト描いてくれないかな?」


「はぁっ?!」


「だいちゃんに会えないんだから、それくらいはしてくれてもいいと思うんだ。僕、総理だし」


「税金の無駄遣いなので、却下です。それと、何度もいいますが、僕ではなく私です」


「なら、自分で描いていい?」


「画伯がなにをおっしゃいますか。お笑い専用機にするつもりならすっぱりと諦めてください」


「鈴木ってさ、冷たいよね。そんなんじゃ、お嫁さん来ないよ」


 鈴木は思わず持っていたスケジュール表を力任せに握りしめた。


「独身の総理言われたくありません!さっさと地方巡業の用意をしてくださいっ!!」


「はいっ」


 首を竦めた神崎は、すぐに立ち上がると準備のために公邸に向かおうとする。


「総理、単独行動は控えてください。山中、総理に付いて公邸へ行ってくれるかな?」


「えっ?鈴木じゃないの?」


「私は忙しいんです。山中、頼む」


 鈴木が第二秘書の山中へ声をかけた。


「承知しました。総理、お供いたします」


 痩せた長身の山中は、一礼して神崎の後に従った。

 神崎の後姿を見送った後、鈴木は極秘と記された『神崎総理応援日程表』の原本をコピー機にかけた。

 コピーを茶封筒へ入れ、封を閉じる。


「これでよし……」


 鈴木は封筒を机の引き出しへしまうと、山積みになった書類へ視線を戻した。

 官邸では、夜遅くまで灯りが消えることはなかった。



 その夜、官邸の誰にも気づかれることなく、極秘扱いの『神崎総理応援日程表』が一枚、静かに持ち去られた。

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