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第11話 総理も定時で帰りたい

閣議終了後、決定済みの議案を回収し、記録と手続きを確認する内閣総務官室は、水を打ったように静まり返っていた。

ペーパーレス化が進められているとはいえ、机上のモニター周辺には、いまだ書類が山積みになっていた。


閣議の事務を取り仕切る内閣総務官室の官僚たちは、手続きの厳格性を守る「プロフェッショナル」である。

今回の法案も、本来なら関係省庁や内閣法制局による審査を経たうえで、内閣総務官室が閣議案件として取りまとめるはずだった。

官僚たちは提出した覚えのない法案を前に全員顔色を悪くしていた。


「提出経路を確認しました」


「閣議決定済みです。署名も揃っています」


「……撤回できますか?」


「閣議決定後です」


「……」


「つまり、我々のミスだと認めることになります」


と、一人の官僚がいう。

官僚にとって「未確認の書類が紛れ込んだ」と認めることは、出世コースからの脱落を意味する。


(終わりだ……)


集まった官僚たち全員の頭の中に浮かんだ。


”せっかく、ここまできたのに……”


ふと誰かの声がした。


「……総理のご意思だった」


ぼそっと誰かが言う。

全員が顔を見合わせた。


「……総理のお考えを汲み取れなかったのは、我々の落ち度です」


「忖度」


ごくりと唾を飲む音がやけに大きく響いていた。

事前に審査を終えた正しい内容であるという前提で署名しているということは、大臣や党は了承済み。通さなければならない法案なのでは?

なら、『最初からすべて厳格にチェック済みでした』という体でいいのではないか?

総理の緊急指示による案件として、必要な法制審査と党内手続きを今から至急進めれば……

暗黙の了解がなされた。


「条文の体裁すら整っていません」


「内閣法制局へ回せ。総理の緊急指示として、今日中に要綱と理由を整えるんだ」


「今日中ですか!?」


「閣議決定済みだぞ。今日中だ」




コンコン。


「総理、昨日閣議決定された法律案一式です」


スーツを着た官僚が総理大臣事務室に閣議決定された法案を取りまとめたホルダーを持って来た。


「はい」


総理秘書官である鈴木が受け取った。

余計な装飾や文字などは一切なく、艶のある美しい漆黒の革張りのホルダーは重厚さを感じさせた。

鈴木は確認するためにホルダーを開くと、内側には伝統的な和紙で作られた法案がきれいに収まっていた。


パラ……


パラ……


鈴木は真っ青になって、持ってきた官僚の顔を見た。


「………………」


何事もなかったように官僚は一礼して出ていった。

鈴木はわなわなと震えて、執務机に座って大根ウルフを並べている神崎を見据えた。


「総理……これ、何ですか」


「これってどれ?」


「……昨日、閣議決定された法案です」


「総理も定時で帰りたい法案のこと?」


「何をしたんですか」


「だって鈴木、提出していいって言ったよね」


「いつ!」


「予備の法案取りに行ったとき」


「あ、あのときか……」


くらりと眩暈を覚えた鈴木はよろけて机に手を突いた。


「大丈夫、鈴木?」


「大丈夫なわけないでしょう!!」


鈴木の絶叫で神崎の執務机に飾られていた大根ウルフがころんと転がった。




一方、民自党執行部では、与党幹部たちがブチ切れていた。

通常、法案は総理が与党の政務調査会や総務会による事前審査を通して作成されるものだが、神崎の【総理も定時で帰りたい法案】は当然のことながら事前審査にはかけられていなかった。

政調会長に就任した有賀が顔を真っ赤にしている。


「ふざけるな!何が勤務時間だ!残業は月四十五時間だ!そんなことで国政が乗り切れるかっ!!」


肩でぜぇぜぇと息を吐く。


「緊急時以外のLINEの返信は翌営業日って、舐めているのか!!それにこの附則、『愛猫と遊ぶ時間は極めて重要である』って、なんだっ?!遊ぶ暇があれば、LINEに出ろっ!!」


総務会長に就いた武藤も怒りに震えていた。

二人とも、二十四時間働いてこそ政治家だという昭和型の価値観が染みついている。


「却下だ却下。廃案だ!」


有賀が鼻息も荒く言い放った。


「そうなのですが……」


中堅議員がおずおずと有賀と武藤に党を取り巻く現状を伝える。


「内閣は神崎総理により、高い支持率を維持できていますが、党の支持率がここに来て、いま一つ伸び悩んでいまして、この後の選挙を考えると反対するのは自分の首を絞めることになると、大半の議員が及び腰なのです」


「だがな、こんなものを認めるわけにはいかん」


「しかし、当落線上の議員にとっては、マイク一本で数万票集める総理が地元に入るかどうかで運命が決まりますので、賛成票を投じるしかないのが実情です」


「いま総理にヘソを曲げられて、演説を拒否されたら、当落線上の候補は全滅するおそれもあるかと」


「うちの選挙区、総理が来るだけで三万票動くそうです」


「先生、今回は飲み込みましょう」


有賀と武藤も当落線上の派閥議員の顔を素早く思い浮かべた。

ひぃ、ふぅ、みぃ……

最大派閥が三位くらいまでに落ちる計算となり、さーっと顔色を青くした。


「し、しかたない。今回は見なかったことにしよう、総理に恥をかかせるな!」


見事なまでの掌返しだった。



額に嫌な汗をかいて鈴木は布張りの立派な箱を抱えて国会議事堂の廊下を小走りに歩いていた。衆議院事務局、議案課の窓口に


「内閣提出の法案です」


とガツンと提出した。

あのくだらない法案を提出するのかと思うと、鈴木は情けなさのあまりつい力が入ってしまった。

法案名を尋ねられたら恥ずかしくて土に埋まりたくなる。

窓口のベテラン職員は、それが「とんでもない珍法案」とも知らず、お役所仕事として、淡々と受領印を


ポン、と押しした。


(ああ、受領されてしまった……これで国会審議に上がるのか……)


鈴木の胃にきゅっと差し込みが入った。


国会議事堂内にある本会議場は、三階まで吹き抜けになった厳かな大空間に木製の重厚な内装や天井のステンドグラスが特徴的な部屋だった。

正面中央の一番高い場所に議長席が設けられ、そのすぐ前に、議員が演説や質問を行う演壇が設置されていた。前列には国務大臣席が設けられ、議長席を中心に、与党、野党と左右に分かれて座る。

内閣総理大臣である神崎は議長席に近い左側に座った。


衆議院議長の大河原は重々しい声で、法案審議の開始を告げた。


「これより、内閣提出、法律案(総理も定時……」


大河原は読み上げかけ、あり得ない法案名に一瞬、言葉を失った。さっと自分の手でマイクを隠し、大河原がすぐ下に座っている事務総長に身を乗り出して、小声で確認した。


「おい、事務総長。これ、台本の誤植じゃないのか? 『総理も定時で帰りたい法案』と書いてあるぞ」


事務総長は額に冷や汗を浮かべた。


「い、いえ議長。内閣から正式に提出された法律案です。議院運営委員会でも、本日の本会議で趣旨説明を行うことが了承されています。読み上げていただくしかありません」


「正気か、内閣は……!」


小声で交わしたはずの会話を、高性能マイクが容赦なく拾っていた。


『……誤植じゃないのか?』

『……正式に提出された法律案です』


焦った囁きが議場全体に響き、国会中継を通して全国へ流れた。


「早く読め!」


「議長が確認しなければならないほど、まずい法案なのか!」


野党席からヤジが飛ぶ。


大河原は、ヤジを飛ばした議員を睨みつけた。


(そうだ。正気を疑う法案なんだ!)


大河原は重々しく咳払いをした。


「これより、内閣提出、いわゆる【総理も定時で帰りたい法案】を議題といたします。まず、提出者から趣旨説明を聴取いたします」


先ほどまで騒いでいた野党席も、さすがに静まり返った。


「はい!」


神崎が元気よく返事をし、演壇へ向かった。


それから数週間。


法案は所管委員会へ付託され、審議に入った。与党と労組系野党の思惑が奇妙に一致した結果、異例の速さで委員会を通過。衆議院本会議で可決されたのち、参議院でも賛成多数によって可決され、正式に成立した。



テレビの画面や街中の大型ビジョンにニューステロップが一斉に流れた。


「神崎総理、総理自身の働き方改革を提案」


「総理自らがワークライフバランスの手本となる」


各業界の労働組合は、この法案が労働者の待遇改善やワークライフバランス推進の起爆剤になると歓迎し、労組系を謳っている政党は賛成に回り、反対票を大差で上回った。

SNSの反応も早い。


『草』


『正直好き』


『改善されるのか?』


『総理も休ませろ』


『だいちゃんに会わせろ』


法案そのものの実効性には疑問の声もあった。

だが、「まず権力者自身が働き方を変える」という姿勢は、長時間労働に疲れた国民の心を予想外に捉えた。

子育て世代がワークライフバランスの象徴として歓迎し、過労死遺族の団体が支持。

そして、「猫に会わせてやれ」という同情票。

世論の反応は好意的だった。

そして、法案成立後の支持率は……


支持率 75%→81%


鈴木は画面を見た。

……

一度目を閉じて、もう一度見た。

……

眼鏡を外して見た。

やっぱり81%だった。


「……なんで支持率が上がるんだよ!!おかしいだろう?!」


神崎は首を傾げた。


「なんでだろうね?」


そう言うと神崎は椅子にもたれ、


「これで土日休めるかなぁ」


と、どこまでも平和に呟いた。

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