第10話 初閣議
発足直後の神崎内閣の支持率は歴代最高の七〇パーセント超を記録した。それに伴い民自党の支持率もうなぎ上りとなっていた。
前内閣の最終支持率は十九、二七パーセント。政党支持率も三八・一パーセントだったので驚くべき回復率だった。
カシャカシャカシャカシャ
分厚いオーク材の扉が開いた瞬間、怒号のようなシャッター音とフラッシュの嵐が神崎を迎え入れた。
支持率七五%を誇る『奇跡のイケメン総理』の一挙手一投足を収めようと、報道陣のカメラの列が激しくうねる。
しかし、神崎の脳内は「今日の晩ごはんのチーズハンバーグ」という思考で占められている。
「総理、正面に笑顔をお願いします」
向けられた無数のレンズに対し、神崎は「はーい」と緊張感ゼロの声を返して、無邪気にダブルピースを繰り出そうとした。
――が、その指が Vの字を結ぶことはなかった。
この部屋に押し込まれる直前の廊下で、鈴木にネクタイの曲がりを直されながら言われた言葉が脳裏にフラッシュバックした。
「総理。ここは地元老人会のボーリング大会ではないんです。ダブルピースはしない」
「えー、だめ?ちょっとくらいサービスしたっていいじゃない。きっと、みんな硬い顔して、お葬式みたいになってるよ?」
「やったら今夜のハンバーグは抜きです」
という低く冷徹な声。
(あぶなっ……! チーズハンバーグが消えるところだった……!)
神崎は引きつりそうになる指先を慌ててグーに握り直し、いつもの笑顔を浮かべた。
写真撮影が終わり、神崎は隣の閣議室へと向かう。
歩きながら神崎はここ最近の鈴木との会話を思い出していた
「もう、仕事終わっていいよね?」
「何を言っているんですか。この後は閣議書への署名、その後は深夜まで各国首脳との電話会談、明朝5時からは安全保障のレクチャーです」
「えっ、嘘でしょ!?」
神崎の顔から、完全に血の気が引いた。
「僕の睡眠時間は?」
「あなたは国家公務員特別職、つまり二十四時間三六五日、眠っている間も総理大臣です」
血も涙もない言葉を鈴木が当然のように言った。
愛猫にも会えない。満足に休憩もとれない。自分の時間もない。
我慢も限界だった。
(ブラック企業どころの騒ぎじゃないよ! 決めた、僕、やっぱりやるからね!)
神崎はモーニングのポケットに突っ込んだ「ある書類」を、上からそっと叩いた。
鈴木に「寝言は寝てから言ってください」と一言で却下された法案、【国家公務員特別職(内閣総理大臣等)の労働環境適正化並びに働き方改革推進法案(私案)】。神崎の夢の法案。
勤務時間はきっちり八時間。残業はサブロク協定に準じて月四十五時間、年三六〇時間まで。土日祝日は完全週休二日制とし、緊急事態以外のLINEの返信は翌営業日で可とする、という神崎の血と涙の結晶である。
総理大臣だって、人間なのだから。
神崎が本気で考え抜いた、悲願の働き方改革だった。
通称「総理も定時で帰りたい法案」。
法案の最後には、小さな文字でこう書かれていた。
(お願い)
できれば土日も休みにしてください。
だいちゃんと遊びたいです。
閣議室の中央には、見事な楕円形の巨大な円卓が鎮座している。
席順は当選回数や党内序列で厳密に決められており、神崎の正面には、一癖も二癖もありそうな政治家たちが何人も並んでいた。
重苦しい「全会一致」の空気が部屋を支配する中、事務方から、新内閣の基本方針が書かれた重厚な「閣議書」が運ばれてくる。
初閣議の署名は、伝統的に毛筆で行われる。
官房長官の三井の穏やかだが威厳のある声が響いた。
「それでは、これより初閣議を執り行います。各大臣、お手元の閣議書に署名をお願いいたします」
部屋に濃墨の、ツンとした高貴な香りが漂う。
初入閣の大臣たちが、緊張で手を震わせながら、硯で墨をすり、厳かに名前を書いていく。
(よし……チャンスはここだ……!)
神崎は心臓をバクバクさせながら、モーニングのポケットの裏に仕込んだ「総理も定時で帰りたい法案」に触れた。
子どものころ、厳めしい祖父と父にいたずらを仕掛ける時以来の緊張だった。
閣議は全会一致が原則。
初閣議ともなれば、誰もが式次第どおり進むものだと思っている。
もし、閣議書にこの法案を一枚だけ紛れ込ませ、大臣たちが気付かず全員署名してしまったら──。
しかも、ここは最高機密の部屋。官僚たちのチェックが入る前に、紛れ込ませてしまえば──。
それは、国家を揺るがす前代未聞の「閣議書偽装サスペンス」の幕開けだった。
「総理、次、貴方の番です」
三井が背後から、墨をたっぷり含んだ筆を差し出してくる。
神崎はごくりと唾を飲み込んだ。
天然な笑顔の裏で、神崎は必死だった。
(絶対、土日は、だいちゃんとお昼寝して過ごしてたり、ボーリング大会に参加してやるんだ……!)
神崎は筆を握り締め、ギラリと目を光らせた。しかし、緊張のあまり、最初の一太刀で思いきり手が滑った。
「あ、墨こぼしちゃった」
静寂に包まれた閣議室に、神崎の間の抜けた声が響き渡った。
墨をたっぷり含んだ太筆から、ぽたり、と黒い大粒の涙が落ち、運ばれてきたばかりの真っ白な閣議書に見事なシミを作った。
一瞬、部屋全体の空気が凍りついた。
初入閣の若手大臣は恐怖に目を見開き、官房長官の三井は差し出した筆を持ったまま固まっている。
伝統ある初閣議の、しかも国家の基本方針が書かれた書類を汚すなど、前代未聞の失態だった。
(終わった……! すり替えるどころか、僕の不器用さで計画が水の泡だ……!)
神崎は心臓が口から飛び出そうだった。モーニングのポケットの中の「総理も定時で帰りたい法案」が、罪の重さで2倍くらい重く感じられる。
しかし、高支持率の「奇跡のイケメン総理」の一挙手一投足を見つめる周囲の脳内は、神崎の想像とは全く違うベクトルへ加速していた。
(……待て。あの総理が、こんな単純なミスをするはずがない)
正面に座る党内最大の大河原の派閥から入閣した財務大臣の黒岩が目を細めた。
今回の新内閣の基本方針には、黒岩の派閥がねじ込んだ「公共事業の拡大」が含まれていた。
(わざとだ。神崎は、我々の利権まみれの方針に不満を示しているんだ。墨をこぼして『この閣議書は白紙に戻す』という無言のメッセージ……! なんて恐ろしい男だ。ニコニコしながら、我々を脅していやがる!)
黒岩の背中に冷たい汗が流れた。
沈黙に耐えかねた三井官房長官が、慌ててフォローに入ろうとする。
「そ、総理、すぐに予備の用紙を──」
「いや、三井君。それには及ばない」
重々しい声でそれを遮ったのは、他ならぬ黒岩だった。
黒岩は椅子の背もたれに深く寄りかかり、神崎を鋭く睨み据えた。
「……総理。なるほど、そういうことですか。我々のやり方が、少し強引すぎたと……」
「えっ?」
神崎は素でトボけた声をあげた。
チーズハンバーグと、愛猫のだいちゃんのことで頭がいっぱいの脳みそには、黒岩の言葉の意味が1ミリも理解できない。
だが、周囲はその「えっ?」という短い声に、底知れない冷たさを感じ、閣議室の緊張感はマックスに達した。
「……認めましょう。この基本方針には、我が派閥の我が儘が過ぎた部分もあった。総理がそこまで言うなら、私は一歩引きます。公共事業の予算枠、1割削る方向で調整し直させます。だから総理、どうかその不満げな顔を収めていただきたい」
黒岩が苦渋の決断を下したように頭を下げた。
周囲の大臣たちが息を呑む。
あの「永田町の剛腕」と呼ばれた黒岩が、総理の『墨一滴』で完全降伏したのだ。
「ええっ!?」
何人かが素っ頓狂な声をあげた。
前内閣から数ヶ月揉め続けていた予算問題が、一瞬で解決してしまった。
(神崎総理……わざと墨をこぼして黒岩先生のド肝を抜き、妥協を引き出すなんて……。この人、天然のフリをした怪物だ!)
閣議室にいる誰もが、神崎を底知れない人物だと思い始めていた。
当の神崎はといえば、ポケットの書類を紛れ込ませる大チャンスが巡ってきたことに、一人で大興奮していた。
(なんかよく分かんないけど、もう一回やり直せるみたい! 今しかない!)
「あはは、黒岩さんたら気が早いなぁ」
神崎はアイドル顔負けの笑顔を振りまきながら、すっと立ち上がった。
「僕じゃなくて私のせいで書類が汚れちゃったから、ちょっと新しいやつと交換してきます! 予備、廊下の棚にあるって鈴木が言ってたし!」
「あ、総理! 我々が取って参ります!」
事務方が慌てて止めようとしたが、神崎の動きの方が早かった。
「いいのいいの、僕のミスだから!」
神崎は墨のついた閣議書を抱え、軽い足取りで閣議室を飛び出した。
重厚な扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、神崎は壁に背中を預け、
「はーーーっ」
と激しい息を吐き出した。
心臓がうるさいくらいに脈打っている。
手元には、墨で汚れた本物の閣議書。
そしてポケットには、きっちり八時間労働と完全週休二日制を謳った、「総理も定時で帰りたい法案」。
「よし……! あとは、新しい閣議書の束に、この法案を一枚だけ紛れ込ませれば……!」
「総理。何をしておられるのですか」
背後から、地獄の底から響くような、聞き馴染みのある声がした。
ビクゥッ!と神崎の身体が跳ね上がる。
振り返るとそこには、廊下の影から音もなく現れた鈴木がいた。
「……あ、あのね、鈴木。これには深い事情があってね……」
鈴木は、眼鏡の奥の目を氷のように冷たく光らせて、神崎が持っている墨で汚れた本物の閣議書を見た。
「総理、仕出かしましたね」
「ご、ごめんね。悪気はなかったんだよ。でも、余りにも」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと貸しなさい」
鈴木は墨で汚れた本物の閣議書を取り上げると、棚から控えを取り出し、確認したのち、神崎に渡した。
「いいの?」
「これを持って、早く閣議に戻ってください。皆さんを待たせています」
鈴木の許可が下りたと思った神崎は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう、鈴木」
そして何の迷いもなく懐から【総理も定時で帰りたい法案】を取り出すと、新しい閣議書の束へ一枚だけ当たり前のように差し込んだ。
神崎は足取りも軽く閣議室へ駆けていく。
鈴木は墨で汚れた閣議書を見つめ、
「まったく……本当に世話が焼ける」
と言い、深くため息を吐いた。
「……待て」
鈴木の思考が止まる。
「今、あの人……ポケットから何を出した?」
嫌な予感だけが、胃の底からゆっくりと込み上げてきた。




