第9話 総理の一日
「三井先生は適材適所、目的志向の人事が大事だとこの前お伺いした時に教えてくださいましたよね。なら、本当に能力を発揮できる人物を配置するのいいですよね。あと、品川先生がうるさいから、女性や若手も積極的に登用したいです」
7:00 AM
「鈴木、僕、もうお家に帰りたいんだけど。だいちゃんにもう三日は会ってないんだよ……」
総理大臣公邸の寝室から這い出てきた神崎の涼しげな目元は、睡眠不足と絶望で涙に潤み、半泣き状態である。
その背後から、冷徹なまでの声を響かせたのは、神崎の私設秘書である鈴木だった。
「帰れるわけがないでしょう。あなたは三日前に我が国の内閣総理大臣に就任してしまったんです。はい、これ、本日のスケジュール。それからモーニングコーヒーの代わりに野菜ジュースです。あと、僕ではなく私」
白皙の肌に銀縁眼鏡を光らせた鈴木のその手には既に胃薬のパッケージが握られている。
「見てよ、鈴木、このスケジュール。分刻みだよ。労働基準法って知ってる?国民の労働環境を守るトップが、こんな違法性の高い働き方をしていていいと思う?」
鈴木はひくっと口元を引き攣らせた。
「ねえ、勤務時間を九時五時にする法案出していい?」
「いいわけありません。総理大臣に労基法は適用されません。国家のために二十四時間馬車馬のように働くのがあなたの義務です」
「そんな……!これじゃただの社畜だよ!」
「先生。総理大臣なんて社畜ですよ。ちなみに我々秘書は、そのブラック企業で過労死寸前まで追い込まれている末端社員です。お互い諦めましょう。そんなことより、早くスーツに着替えてください。今日は三井先生がお見えになります」
神崎は「だいちゃんと二度寝したい」と呟きながら、高級仕立てのスーツに袖を通した。
鈴木は深く、重いため息をつきながら、「きっぱり諦めてください」と言って、手慣れた手つきで胃薬を水なしで飲み下した。
10:00AM
「それより次のレクの資料を読んでください」
そう言って、鈴木は分厚いファイルを容赦なく机に叩きつけた。鈴木は現在は首相秘書官として官邸に乗り込んでいる。
分厚いファイルを前にした神崎は、指で突っついて開けようともしない。
「総理、読んでください」
「はい」
神崎が渋々ファイルを開き読みだした。
「はぁ……。組閣人事を三井先生のアドバイスで何とか乗り切ったからって、安心している暇なんてないんですよ」
鈴木はポケットから慣れた手つきで胃薬を取り出すと、エナジードリンクで一気に流し込んだ。過剰摂取寸前のカフェインとストレスを行き来している男の動きだった。
神崎が組閣を面倒がり、自分に丸投げしようとしたので叱り飛ばしたら、今度は地元商店街からガラポンを借りて、アタリがでたらその人物を党三役や大臣にすると言い出した時には本気で首を絞めたくなった。
胃に穴が開くのが先か神崎を絞め殺すのが先かと思われたとき、三井が各派閥から提出された「入閣希望者リスト」を手に現れた。三井はこれまでの慣例を説明し、党内バランスのもと組閣したらいいのではアドバイスをしたが神崎は、
「適材適所、目的志向の人事。本当に能力を発揮できる人物を配置したいと考えてます。あと、品川先生がうるさいから、女性や若手も積極的に登用したいですね」
といい、これまでの慣例はしたくないと言った。
好々爺とした温厚な容貌の裏に、恐ろしいほどの老獪さを隠し持つ三井が味方になったことで、神崎はこういう人に内閣に入ってもらいたい、こういう人材に支えてもらいたいと説明し、具体的な人選は三井に委ねた。
神崎内閣誕生の裏には、党内誰もが認める政策通である三井の功績が大きい。
あとで、鈴木は神崎に「いつ、そんなことを考えていたんですか?」と聞いた。
「おじいさんと父さんが言ってたことを、まるパクリしたんだよ」
「は?」
「だって、鈴木はガラポンは駄目だって言ったじゃないか。なら、あの二人が言ってたことを誰かにやってもらえばいいと思たんだよ」
「……大先生たちの……ですよね。あなたがそういうことを考えるはずありませんよね」
鈴木はがっくりと肩を落としたことを思い出していた。
「鈴木、鈴木、見てよ、これ」
そう言って神崎が見せたものに鈴木は額に青筋を浮かべた。
「大使の顔に髭を描いてどうするんですか!あなたは小学生ですか!!」
12:38PM
「総理、お昼です」
神崎の前にカレーライスが置かれた。
スパイスの匂いが鼻をくすぐり、よく煮込まれてたルーはすべての具材の旨味を溶かし込み、漆黒に近い深みのある色を帯びていた。
「美味しそう」
「昼食時間は五分です」
「えっ、無理」
「成せば成ります」
「成らないよ」
「カレーは飲み物です」
鈴木はエナジードリンクを片手に平然と言った。
「大食い選手の代名詞だから、それ」
「それが、なにか?」
「官邸でその理論採用する気なんだ……」
鈴木はにっこりと笑った。
「総理案件として、採用しましょう」
「嫌な前例を作っちゃった……」
14:30PM
内閣総理大臣の仕事は、一分単位でスケジュールが詰まる過酷なブラック企業だったと神崎はいまさらながらに思った。
「総理、次の閣議まであと三分です。それと、先ほど貰った外務省からのレクチャー資料に目を通しておいてください」
総理大臣官邸の廊下を、私設秘書の鈴木は早足で歩きながら言った。
「ねえ、鈴木」
歩調を合わせる神崎は、響き渡るような低音ボイスを放つ。
しかし、その中身は驚くほど無邪気で天然だった。
「半休か早退していい?」
「いいわけありません。ふざけるな!です」
鈴木は眼鏡のブリッジをクイと上げ、即座に却下した。
「だってさ、朝から陳情を受けて、疲れたんだよ」
「国家最高の社畜に休みはありません。私たち秘書は言うに及ばずです」
「政界に就職するもんじゃないね」
「まったくです」
はあ、と深いため息をついた鈴木は、胃のあたりを押さえて錠剤を飲み込んだ。
野心ゼロの神崎が、持ち前の真面目さと圧倒的なビジュアルだけで国民の人気を集め、うっかり総理大臣にまで上り詰めてしまったのがすべての元凶である。
「次は財界トップとの面会です。くれぐれも失礼のないように……」
「わかった。あ、鈴木、あのね」
神崎は無邪気な笑顔で、ポケットから何かを取り出した。
「地元のゆるキャラ並べといた!」
それは、首が細く尻が太い白大根に、血走ったような鋭い目、大きく裂けた口、何本もの牙が生えた『大根ウルフ』。ゆるキャラというより、どう見ても「きもキャラ」だった。
「どこに並べたんですか!?」
「閣議室の円卓、殺風景だったから」
「今すぐ撤去してください!!」
「ちょっと、ほっこりしたくない?」
「ほっこりというより、竦みあがって息の音が停まります!」
鈴木の悲鳴に似た怒号が、官邸の廊下に虚しく響き渡る。
就任三日目にして、敏腕秘書のライフはすでにゼロを切りかけていた。
18:00PM
「もう駄目だよ……やる気出ないよ、鈴木〜っ」
「元からそんなものないでしょうが!次は、安全保障や外交に関する最初の本格的なレクチャーですからね」
「えーっ、酷すぎる。地元にいる時はやる気満々だよ、ぼ、私」
「地元は遊び場ですからね、総理の場合は。甘ったれたこといってないで、走ってください」
「三時のお茶、なかったし……」
幾分拗ねたように言い、その場にしゃがみ込む神崎に鈴木はいらっとした。
(あんたは子どもかっ!!)
鞄を徐ろに開けると、
「グレープフルーツ、マスカット、ピーチ、ヨーグルトバナナ、どれにしますか?」
「気分はヨーグルトバナナかな」
鈴木はヨーグルトバナナ味のエナジードリンクを取り出すと神崎に渡した。
「遅くなりましたが、三時のお茶です」
「……朝食にって書いてあるけど……」
「嫌なら返して下さい」
神崎は大人しく吸い始めた。
「あっ、これ美味しい」
「良かったですね」
適当に答えた鈴木が腕時計をみた。
「総理、飲みながら走りますよ」
「鬼がいる」
鈴木は何も答えず、一分一秒が惜しいと神崎を次の会議室へと追い立てた。
22:49PM
「……」
安全保障についてのレクチャーを聞き終えた神崎は放心状態で総理執務室のソファーに身を任せていた。
その神崎にタブレットを見ていた鈴木が淡々と言う。
「お疲れ様でした。本日の予定はこれで終わりです。明日は7時半にお迎えに上がります」
「いまからお風呂に入って、猫の動画見てたら、寝るのが一時……睡眠時間五時間って酷い。だいちゃんにも会えない……」
「動画見るのを止めれば、六時間は寝れます」
「嫌だ。だいちゃんがいないんだよ。癒しがほしいんだよ」
「分かりましたから。総理、公邸に帰りますよ」
のろのろと腰を上げた神崎は疲労困憊の身体を引き摺るように歩いた。
神崎が部屋を出ると、鈴木は照明のスイッチに手を伸ばす。
パチン。
部屋の灯りが落とされた。
「鈴木……僕、生まれ変わっても政治家になっていたら、総理にだけは絶対にならないって決めた」
「総理、僕ではなく私です。そうですか。奇遇ですね。私も政治家の秘書にだけはならないと心に誓いましたよ」
官邸の薄暗い廊下を、世界一やる気のない総理と、世界一胃の痛い秘書が並んで歩いていった。




