表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/10

第8章 神速の風

逆光の中に、長身の人影が立っていた。


涙で滲む視界。震える瞳。


その立ち姿だけは見間違えようがなかった。


「……たかしさん?」


夢だと思った。


何度も傷つき、


何度も裏切られ、


もう誰も助けには来ない。


そう思っていた。


だから信じられなかった。


人影は静かに歩き出す。


迷いはない。


恐れもない。


まっすぐ幸だけを見つめている。


「迎えに来た。」


たった一言。


それだけだった。


その瞬間。


幸の中で張り詰めていた二年間が、音を立てて崩れ落ちた。


涙が溢れる。


止まらない。


「たかしさん……。」もう声にならない。


たかしは幸の前まで歩み寄る。


震える幸の頬へ、そっと手を添える。


「もう大丈夫。」


その温もりだけで、幸は、自分が助かったのだと初めて理解した。


たかしは、幸を椅子に縛り付けていた厚手の結束バンドに手をかけた。


次の瞬間。


パァンッ!


工業用結束バンドが紙紐のように裂け飛ぶ。


たかしが、素手で引きちぎったのだ。


地下室にいた全員が息を呑んだ。


自由になった両手は震えたまま宙をさまよう。


たかしはその細い手を、両手で静かに包み込む。


「僕がいる。」


その一言で十分だった。


幸は堰を切ったように泣き崩れた。


その姿を見ながら、涼はなおも笑う。


「逃げたら、この子がどうなるか分かるよね?」


しかし、その笑みはもう、先ほどまでの余裕を失い始めていた。


たかしはゆっくり顔を上げる。


その視線が初めてリングへ向く。


待ち受ける金井茂。


全国上位の怪物ボクサー。


たかしは静かに一礼した。


「分かりました。ボクシングのご指導をお願いします。その代わり、桜井さんを放してやってください。」


たかしは静かに上着を脱いだ。


シャツが床へ落ちる。


地下室にいた誰もが、その身体を見た瞬間、言葉を失った。


鍛えている――そんな生易しいものではない。


無駄な筋肉は一切ない。鋼を削り出したような肩。


幾千幾万という鍛錬だけが生み出せる、静かな肉体。


そして。


左右の腕の内側に。


赤黒く刻まれた()()()()


炎に焼かれたような、生涯消えることのない焼き印だった。


「……あれは……?」誰かが思わず呟く。


地下室が静まり返る。


その時だった。


ピピッ。


場違いなほど小さな電子音が響く。明美のスマートフォンだった。


たかしが、中国で10年滞在していた寺の名前が判明したのだ。


彼女は画面を見た。その表情が凍る。


「……そんな……。」


血の気が引いていく。指先が震える。


スマートフォンを取り落としそうになる。


「どうした?」


涼が奪うように画面を覗き込んだ。


そこに表示されていたのは、たった一行だった。




     「()()()()()()()()




その文字を見た瞬間、涼の顔色が変わった。


「嘘だろ……。」


「まずい……。」


涼の声は震えていた。


「あそこは、中国武術の頂点だ……。」


誰に言うでもなく呟く。


「本物の武僧を育てる場所だ。」


彼の視線は、たかしの腕へ吸い寄せられていた。


「しかも、あの焼き印……。」


少林寺には、一つの古い伝承がある。


長い修行を終えた僧だけが、山門を出る資格を与えられる。


その最後の試練。


真っ赤に焼けた青銅の甕を、両腕で抱えて動かす。


その灼熱によって腕に刻まれる龍の焼印。


それは、修行を終えた者だけに残る、生涯消えない証。


少林拳を極めた者だけが持つ、少林寺僧侶の証明だった。


地下室の空気が変わる。


さっきまで勝利を確信していた生徒たちの笑みは、もう誰一人残っていない。


たかしは、手渡されたグローブをはめ、ロープをくぐってリングへと上がった


リングの上。


たかしは静かに金井へ向き直る。


左拳を握る。


その拳へ、右の掌を添える。


深く、一礼。


少林寺に千年以上受け継がれてきた礼法。


続いて左手を静かに前へ伸ばし、右拳を鳩尾へ収める。


力みはない。


それなのに、誰一人として息をすることができなかった。


その構えを見た瞬間、誰もが理解した。


これから始まるのは、ボクシングではない。


その構えが完成した瞬間、ゴングが鳴った。


空気が変わる。


金井は、ファイターとして極限の臨戦態勢に入っている。


金井のフットワークが爆発的に加速した。


幾多の強敵を沈めてきた得意のインファイトの間合い。


目の前の男は動いていない。


そう見えた。


次の瞬間――もう、そこにはいなかった。


(速い……!)


いや。


速いのではない。


見えていない。


金井の背筋を、氷のような悪寒が走った。


金井の身体が本能だけで動く。


踏み込む。


左ジャブ。


右ストレート。


教科書どおりの完璧な連撃。


しかし、そのすべてが空を切った。


拳は風だけを裂く。


たかしの足音は、一度も聞こえなかった。


滑っている。


そうとしか思えない。


少林寺に伝わる「神速の運足」。


濡れた和紙の上を歩いても足跡を残さない――。


その伝承が、今、目の前で現実になっていた。


地下室が静まり返る。


誰一人、息をしない。


右ボディ。


左フック。


右アッパー。


連打。


連打。


さらに連打。


それでも当たらない。


かすりもしない。


たかしは最小限の動きだけで、紙一重にかわしていく。


時折、掌がふわりと動く。


それだけで拳道が逸らされる。


まるで飛んできた木の葉を払うように。


金井のボクサーの動体視力をもってしても、


見えない。


なぜ見えない。


全国で何百試合も戦ってきた。


こんな相手はいない。


一瞬だけ、たかしの身体が止まった。


(もらった!)


金井は全身の力を乗せる。


渾身の右ストレート。


勝負を決めてきた必殺の拳。


しかし。


空。


拳は何も捉えなかった。


そのすぐ横で、


たかしが静かに笑っていた。


次の瞬間。


伸びきった金井の肘の関節へ、たかしの左拳が、交差クロスする。


(折られる――!)


金井の背中を冷たい汗が伝い、反射的に全身が硬直する。


だが、


拳は止まった。


髪の毛一本の距離。


風だけが肘を撫でる。


もし少しでも踏み込まれていたら。


右腕は逆方向へ砕け散っていた。


これはボクシングではない。


人体を壊すためだけに磨かれた武術だ。


金井は叫ぶように踏み込んだ。


捨て身の右ロングフック。


パシッ。


左掌が吸い付くように受け止める。


その瞬間だった。たかしのグローブの拳が、


顎。


寸前で止まる。


左こめかみ。


寸前で止まる。


レバー。


寸前で止まる。


三発。


すべて必殺。


すべて寸止め。


金井は理解した。


殺せる。


この男は、いつでも自分を殺せる。


しかも、それを完全に制御している。


たかしは静かに笑っていた。


慈悲を与える者だけが浮かべられる、あまりにも静かな笑みだった。


カン――。


突然、ゴングが鳴り響く。


タイムキーパーの部員が、耐え切れず誤ってボタンを押したのだ。


しかし、その音が試合を終わらせた。


金井の膝から力が抜ける。


崩れ落ちる。


ダメージではない。


恐怖だった。


両手をまっとについたまま、一歩も動けない。


レバーへ触れた拳の重さ。


顎の前で止まった風圧。


こめかみに残る死の気配。


そのすべてが身体から消えない。


たかしは静かに構えを解き、一礼した。


勝負は終わっていた。


慈悲を受けたことを理解していたのは、このリングの上で金井ただ一人だった。


レバーに触れたあの拳の、底知れない質量が消えない。


もし止められていなかったら、自分の内臓は間違いなく破裂していた。


腹の底が恐怖で痙攣し、強烈な嘔吐感がこみ上げてくるのを、金井は歯を食いしばって必死に堪えていた。


「先輩、ご丁寧なご指導ありがとうございました。自分はボクシングが分かりませんが、大変良い勉強になりました」


たかしは丁寧に頭を下げた。


地下の観客席は、まるで水を打ったように静まり返っていた。誰もが声の出し方を忘れたかのように立ち尽くしている。


やがて、誰かがぽつりと叩き始めた小さな拍手が、波紋のように周囲へと伝播し、次の瞬間には、地下室全体を激しく揺らすほどの爆発的な喝采へと変わった。


しかしそれは、興奮からではなく、圧倒的な「畏怖」から生まれた、祈りにも似た拍手だった。


たかしは静かにグローブを外すと、床から自分の制服を拾い上げ、何事もなかったかのように袖を通した。


腕の内側にあったあの凄絶な龍の焼き印が、再び服の布の下へと静かに消えていく。


「た、たかしさぁん……!」


その時、パイプ椅子から自力で立ち上がった幸が、なりふり構わずリングサイドへと駆け寄ってきた。


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。周囲の何百人という生徒たちの目など、今の彼女には一切関係なかった。


「怖かっただろう。もう大丈夫だ。」


たかしの眼差しは、先ほどのような冷徹さが嘘のように、限りなく優しく、あたたかかった。


幸は、糸が切れたように膝からその場に崩れ落ち、たかしの腰にしがみついた。


そして、子供のように声を上げて激しく泣きじゃくった。


体裁も、プライドも、何もかもがどうでもよかった。


この二年間、冷たい教室の片隅でたった一人、誰にも助けを求められずに溜め込んできた絶望と、恐怖と、孤独。


そのすべてが、堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。


たかしの制服のシャツを両手で白くなるほど握りしめ、胸に顔を押し付けたまま、彼女は泣き続けた。


「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。私のせいで……私のせいで、たかしさんをこんな目に……っ」


「桜井さんのせいじゃないよ。」


周囲の観客たちは、ただ遠巻きにその光景を見つめることしかできなかった。


近づこうとする者は誰一人としていない。たかしと幸を結ぶそのあたたかな空間には、他者の介入を一切許さない、絶対的な壁のようなものが存在していた。


敗北した金井は、すでに這うようにして体育館を後にしていた。


残された拳闘部の部員たちも、片付けの手を完全に止めたまま、ただ厳粛に目を伏せている。


夕方の赤い光が、高い天窓から差し込み、寄り添う二人の影を、床の上に長く、長く伸ばしていた。


ひと呼吸置いた瞬間、幸の身体がいきなりふわりと宙に浮いた。


たかしの強靭な両腕によって、滑らかに、お姫様抱っこの形で抱え上げられたのだ。


「少し足首を痛めている。このまま保健室に連れていくね。」


さっきまで大泣きしていた幸の顔が、一瞬で驚きと困惑の赤色に染まった。


足が完全に地面から離れ、視界が急激に高くなる。


「えっ、ちょ……た、たかしさんっ!? ええっ!?」


何百人という生徒たちの目の前での、堂々たるお姫様抱っこ。


呆然としていた残りの観客たちから、一拍置いて、黄色い悲鳴のような歓声と、からかうような口笛が至る所で一斉に沸き起こった。


しかし、たかしはそんな周囲の喧騒など全く気にした様子もなく、ただ幸の身体を大切そうに腕に抱いたまま、体育館の出口へとまっすぐに歩き出した。


幸が、心臓が破裂しそうなほどの恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、最後までまともな抵抗ができなかったのは―


決して足が痛くて立てなかったからだけではない。


自分を包み込んでいるたかしの腕の中が、あまりにもあたたかく、そして、この世界で何よりも安心できる場所だったからだ。


(この腕の中なら、もう何も怖くない。)


その出口の途中――。


床にへたり込み、ガタガタと無様に震えている南雲信也の姿があった。


顔面は完全に土気色に変色し、立ち上がることもできない。


明美のスマホに映し出された情報の意味を、郷田たかしという怪物の本質を、彼は今、自らの全細胞で理解していた。


一歩、また一歩と、たかしの足音が近づいてくる。


信也は恐怖のあまり息を詰まらせ、喉を鳴らした。通り過ぎる際、たかしの視線が、ほんの一瞬だけ、床に這いつくばる信也へと落とされた。


それは怒りすら含まない、ただ路傍の石を見るかのような、圧倒的な強者の視線。


「す……っ、すまなかった……! 悪かった、俺が、俺が悪かった……!」


プライドも、学園の王としての権力もすべて消し飛び、信也はただの怯える子供のように、命乞いをするかのようにガタガタと震えながら謝罪の言葉を漏らした。


隣に立つ明美も、スマホを握りしめたまま一言も発することができない。


一人の少女を追い詰め、嘲笑っていた支配者たちの末路は、あまりにも無様で、惨めなものだった。


夕暮れの校舎に、寄り添う二つの影がどこまでも長く伸びていく。


どこかで放課後の終わりを告げる部活終了のチャイムが、静かに、優しく鳴り響いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ