エピローグ 春一番の吹く処
あの日、地下室を震わせた圧倒的な畏怖の喝采も、夕暮れの保健室で交わしたいくつかの静かな言葉も、すべては記憶の彼方へと融けていった。
学園を支配していた目に見えない檻は、あの一戦を境に文字通り霧散した。
南雲信也たちは牙を抜かれたように静まり返り、桜井幸を遮る冷たい視線は、もう教室のどこにも存在しなかった。
郷田たかしは、翌日からまた、ただの「物静かで優しいイケメン男子」に戻った。
それからの季節の移り変わりを、幸はお寺の境内の景色とともに、ただ愛おしく見つめていた。
秋が深まり、境内の大公孫樹が黄金色の葉を御堂の屋根に降らせる頃も。
やがて厳しい木枯らしが吹き荒れ、底冷えのする冬の朝が訪れるようになっても。
たかしは毎朝、誰もいない本堂の中で、静かに座禅を組んでいた。
衣服の下にあるはずの、あの凄絶な龍の焼き印は一度も露わにされることはない。
幸は、その姿が見える境内の縁側に腰掛け、ひざ掛けをあてて静かにノートを開いていた。
冬の厳しい寒さに耐えかねて指先が震える日もあったが、不思議と心の中はいつでも、あの夕暮れの腕の中にいる時のようにあたたかかった。
「少林寺の教えに、こんな言葉があるんだ。」
ある日、息を白く切らせたたかしが、縁側の幸の隣に腰を下ろして言った。
『冬の厳寒を耐え忍びて、初めて梅花は骨の髄まで香る』
「厳しい寒さに耐え抜いた蕾だけが、最も美しい花を咲かせ、気高い香りを放つという意味なんだ。」
たかしの穏やかな眼差しに見つめられ、幸は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
二年間、たった一人で耐えてきた暗闇。
それは無駄な時間ではなかったのだと、彼の言葉が優しく肯定してくれた。幸は小さく微笑み、深く頷いた。
――それから、さらに数ヶ月が経ち。
お寺の境内にある一本の大きな古木――まだ固い蕾をいっぱいに湛えた桜の樹の下に、二人は並んで立っていた。
その時だった。
どこか遠く、南の空の彼方から、大気を激しく震わせる地鳴りのような音が響いてきた。
一瞬の静寂の後、突如として猛烈な突風が境内の木々を大きく揺らした。
それは、冬の終わりを告げ、新しい季節の到来を宣言する、力強く暖かい――「春一番」の風だった。
ごう、と吹き抜けた風は、お寺の砂紋を激しく乱し、まだ眠っていた桜の梢を狂おしく揺らす。
その風圧に、幸は思わず目を細め、スカートの裾を押さえた。
今彼女の頬を撫でていく風は、どこまでも心地よく、生命の息吹に満ちあふれていた。
「あ……」
幸が小さく声を上げる。
春一番の強烈な抱擁に耐えかねたように、桜の梢から、いくつかの早咲きの花びらがふわりと解き放たれ、風に乗って舞い踊った。
かつて、濡れた和紙の上を歩くように、音もなく闇を征った少林寺の僧侶。
そのたかしの足元へと、光を浴びた薄紅色の花びらが静かに舞い落ちる。
いま、彼のローファーが踏みしめているのは、もう音の消えた暗闇の世界ではない。
「行こうか、幸ちゃん。」
たかしの幸にたいする呼び方も変わっていた。
「はい、たかしさん。」
幸は満面の笑みで答え、彼の隣へと一歩を踏み出した。
春一番の風が吹き抜ける中、二人の足跡が、光あふれる始まりの地面へと、しっかりと刻まれていく。
近くの高校の校舎から、新学期を告げるチャイムの音が、どこまでも優しく、どこまでも高く響き渡っていた。
完
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