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第7章 仕組まれた舞台(リング)

いよいよクライマックスです。

明けて、月曜日の朝。


休日のみずみずしい秋晴れが嘘のように、空は低く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。


桜井幸が教室の引き戸を開けた瞬間、室内の空気が「ピシリ」と凍りつくのが分かった。


いつもなら、彼女が入ってきても誰も目を向けず、ただ空気のように無視されるか、せいぜい机の上の落書きを笑われる程度だった。


しかし、今朝は違った。


教室中の視線が、一斉に彼女に突き刺さる。そのどれもが、これまでの「哀れみ」や「からかい」ではない。


もっと生々しく、汚泥を見るかのような、明確な「軽蔑」と「嫌悪」の視線だった。


「……あいつだよ、マジで写真のまんまじゃん」


「ウケる。男に守ってもらうために何したの? きっしょ……」


あちこちから隠そうともしない、ヒソヒソとした刺すような声が聞こえてくる。


幸は血の気が引いていくのを感じながら、自分の席へと急いだ。だが、たどり着いた自分の机を見て、彼女は息を呑んで立ち尽くした。


机の上には、昨夜ネットに流された、あの楽しかった日曜日のお出かけの写真が、何枚も何枚もカラーで印刷され、雑にバラまかれていた。


二人が笑い合っている顔の部分だけが、黒い油性ペンで狂ったように塗りつぶされ、ぐちゃぐちゃに引き裂かれている。


さらに、教科書やノートはすべてゴミ箱に捨てられ、机の天板には『売女』『人殺しの身内』と、鋭利な刃物のようなもので深く刻みつけられていた。


「な、に……これ……」


幸の唇が恐怖でガタガタと震え、目から涙が溢れそうになる。


せっかく、昨日の日曜日、人生で一番あたたかくて楽しい時間を過ごせたのに。


学校のことを忘れられる、そう思えたのに。世界は一晩にして、前よりも何倍も陰惨で、残酷な地獄へと変貌していた。


「おはよう、桜井さん」


その時、教室の戸が開き、たかしがいつもと変わらない穏やかな声で入ってきた。


その瞬間、教室内の生徒たちが、まるでモーセの海割りのように一斉に距離を取り、壁際へと引き下がった。


「中国マフィアの少年兵」「異常な暴力の塊」というデマのせいで、生徒たちの間には、幸への軽蔑と同時に、たかしへの本能的な「恐怖」が植え付けられていたのだ。


誰も、彼と目を合わせようとしない。


たかしは、自分の席に着く前に幸の机の惨状に目を留めた。


切り刻まれた思い出の写真。泣き出しそうな、今にも崩壊してしまいそうな幸の震える背中。


たかしの顔から、いつもの微笑みがすっと消えた。


だが、彼は怒りに任せて声を荒らげるようなことはしなかった。


ただ静かに、床に落ちていた、黒く塗りつぶされた幸の写真を拾い上げると、そっとポケットに仕舞った。


「桜井さん。大丈夫だよ。教科書なら、僕のを一緒に見よう。」


その声は驚くほど優しく、そして周囲の冷気をすべて退けるほどに、凛としていた。


たかしはゆっくりと首を振って、教室の最上級カーストが陣取る後方へと視線を向けた。


そこには、腕を組んで面白そうに鼻で笑っている南雲信也と――その傍らで、表情一つ変えずにスマートフォンを弄っている、黒峰明美の姿があった。


明美は、画面からふっと目を離すと、たかしの視線を正面から受け止めた。


彼女の硝子のような瞳が、冷酷に、そして勝ち誇ったように細められる。


(腕力がどれだけ強かろうと、優秀だろうと、この『社会がくえん』のルールの中では、あなたはただの、居場所のない異邦人なのよ)


そう、無言のパントマイムで告げているかのようだった。


たかしは、彼女の網膜の奥にある冷徹な計算を、真っ向から見つめ返した。


彼の澄んだ瞳の奥に、いつもとは違う、静かな、しかし深く激しい嵐の兆候が、音もなく宿り始めていた。


一限目のチャイムが鳴り、教師が教室に入ってきても、室内の異常な緊張感は薄れることがなかった。


たかしは言葉通り、自分の教科書を幸の机との間に置き、静かに授業に耳を傾けている。


幸は周囲の突き刺さるような視線のせいで内容など頭に入っていなかったが、ブレザーの胸ポケットに忍ばせた、あの手書きの紙切れ―『天道酬勤』の文字を制服の上から指先でそっとなぞるたび、不思議と背筋が伸びるのを感じていた。


(天の道理は、正しく生きようとする者を、絶対に見捨てない……)


その言葉があるから、彼女は孤独な教室でも、もううつむかずにいられた。


しかし、その「変化」こそが、カーストの頂点に君臨する支配者たちにとって、最も目障りで許しがたい反逆だった。


だが、そんな幸の隣で、たかしの背筋は定規で測ったように美しく伸びていた。


彼は周囲の陰湿なノイズなど、まるで最初から存在しないかのように完全に無視していた。


彼が気にかけているのは、ただ一つ。隣で小さく呼吸を乱している、幸の傷ついた心だけだった。


その日の最後の授業が終わった時だった。事態は明美の計算通り、さらにあくどい次の一手へと移行する。


教室のスピーカーから、無機質な校内放送が流れた。


『――業務連絡。二年の郷田たかし君。至急、事務室まで来てください。お寺の身元保証人の方から、緊急の確認事項でお電話が入っています』


「あ、和尚様から……」


たかしは微かに眉を動かした。お寺の保証人からの連絡となれば無視するわけにはいかがい。


もちろん、これも明美が事務室の電話回線にハッキングを仕掛け、偽の自動音声を流した巧妙な「罠」だった。


たかしを幸の側から一時的に、かつ確実に引き離すための。


「桜井さん。すぐに戻るからね。今日は一緒に帰ろう。」


たかしは幸に安心させるような微笑みを一度だけ向けると、静かな足取りで教室を出て行った。


――彼が廊下の角を曲がり、完全に気配が消えた、その瞬間だった。


教室の後方で、南雲信也がゆっくりと腰を上げた。その獰猛な口元が、獲物を追い詰めた狼のように吊り上がる。


「おい、大好きなボディガード君がいなくなったぜ。」


信也の言葉を合図に、カースト上位の女子生徒たちが三、四人、幸の机の周りを容赦なく取り囲んだ。


その中には、明美の息がかかった、拳闘部(ボクシング部)のマネージャーの姿もあった。


「ちょっと、桜井さん。あんたのせいで学校のイメージ最悪なんだけど。ちょっと面貸しなよ」


「嫌……! 離して……っ!」


幸は必死に机にしがみついたが、多勢に無勢だった。女子生徒たちに細い両腕を強引に掴まれ、引きずり出される。


その衝撃で、彼女のスクールバッグが床に落ち、中の荷物が派手に散らばった。


床に滑り出たのは、幸の生徒手帳。その透明なポケットから、あの白い紙切れが覗いていた。


「あら、何これ?」


窓際から静かに近づいてきた黒峰明美が、それを拾い上げた。


明美は、そこに書かれた驚くほど力強く美しい楷書を一瞥し、すべてを察したように冷酷に鼻で笑った。


「『天道酬勤』? ……ウケる。おまじない? 今時、こんな紙切れにすがるなんて原始的で最高に滑稽ね」


「返して……っ! それだけは返して……!」


両腕を拘束されたまま、幸が狂ったように叫び、涙を流して身をよじる。肉体的な恐怖ではない。


たかしがくれた、自分の命よりも大切な「光」が汚されようとしていることに、彼女は心の底から激昂していた。


だが、明美はその必死な拒絶を「極上の娯楽」として楽しむように、細い指先でその紙を信也へと手渡した。


「天道? 誰が天だって?」


信也は紙に書かれた文字を見下ろしながら、下卑た笑い声を上げた。


「この学校の『天』はなぁ、俺なんだよ。新入りの説教臭い落書きが、お前を助けてくれるとでも思ったか?」


信也は幸の目の前で、その紙切れを指先でくしゃくしゃに丸めると、自分が飲みかけていた炭酸飲料の缶の飲み口から、指で奥深くへと押し込んだ。


「あ、あぁ……っ!」


幸の喉から、絶望の悲鳴が漏れる。たかしの真心が、冷たいアルミ缶の中で、ベタつく泥水のような液体に黒く染まり、沈んでいく。


その無残な蹂躙を、サッカー部の涼が手元のスマートフォンで愉しげに録画していた。


「あはは、身の程知らずのデートの代償、ってね。ねえ、どんな気持ち? 自分の神様が缶ジュースの底に沈んでいく気分はさ」


涼の冷笑的な声が、教室中に響き渡る。クラスメートたちは関わり合いを恐れて一斉に目を逸らしていた。


一人の少女の心の拠り所を土足で踏みにじり、嘲笑う支配者たち。誰もが自らの保身のために、その誘拐同然の光景を黙って見て見ぬ振りを決め込んでいた。


明美はスマートフォンの画面をトントンと指先で叩きながら、冷酷に唇を綻ばせていた。彼女が次に送った指令は、拳闘部への「餌の設置完了」の合図。


(これで、舞台リングからはもう逃げられないわ)


「一般生徒への部活公開・エキシビションマッチ」。


教師の許可まで得た、誰にも文句を言わせない合法の舞台リングだった。


だが、その薄暗い地下練習場に漂っていたのは、ボクシング競技の空気ではなかった。


獲物を逃がさないための、罠。


リングの上では、バシッ、バシッ、と乾いた打撃音が響いている。


ミットを叩く男――拳闘部主将・金井茂。


インターハイミドル級上位ランカー。


ルールの中で人を倒すことを極めた、本物の怪物だった。


「座れ。」


ドサリ、と幸は床へ突き飛ばされた。


女子生徒たちが細い両腕を後ろへねじ上げる。


工業用結束バンドが、容赦なく手首へ食い込んだ。


パチン。


乾いた音。


それだけで自由は奪われた。


「ひっ……。」


震えが止まらない。


リングの下では、信也が満足そうに腕を組んでいる。


「これで終わりだ。」


冷たい笑み。


「普通ならリングには上がらねえ。でも、あいつは来る。」


「この女を放っておけるほど、冷たくないからな。」


その言葉に、幸の心臓が凍りつく。


(私のせい……。)


たかしが来る。


来てしまう。


全国レベルのボクサーが待つリングへ。


「お願い……!」


幸は涙を流しながら叫んだ。


「私はどうなってもいい……! だから、たかしさんだけは……!」


結束バンドが皮膚へ食い込む。


痛みなど感じなかった。


ただ一つ。


彼だけは来てはいけない。


(来ないで……。)


必死に祈る。


(お願い……来ないで……。)


だが。


その祈りの奥底に、もう一人の自分がいた。


泣きじゃくる、小さな自分。


(助けて……。)


誰にも聞こえない声。


(助けて……たかしさん。)


来てほしくない。


でも、


来てほしい。


その矛盾が胸を引き裂く。


幸は声を殺すこともできず、子どものように泣き崩れた。


誰も助けてくれない。


そう思った、その時だった。


ギィ――。


重い鉄扉が静かに開く。


地下室へ、一筋の夕陽が差し込んだ。


次回で完結になります。たかしの正体が明かされます。

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