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第6章 陽だまりのパルファン

それは、嵐のような騒動が嘘のように過ぎ去った、ある秋晴れの昼休みのことだった。


いつもの屋上の日だまり。フェンス越しに遠い街並みを眺めながら、たかしは幸の作ったお弁当の卵焼きを口に運び、心底美味そうに目を細めた。


そして、箸を持ったまま不意に、思いついたように言葉を紡いだ。


「この街を案内してくれるとうれしいんだけど」


「え……?」


お弁当の感想をドキドキしながら待っていた幸は、予想だにしない角度からの提案に目をぱちくりとさせた。


「いつも、お寺と高校の往復ばかりで、この街のことがよくわからないんだ」


たかしは購買のパンではなく、幸が差し出したおかずを嬉しそうに咀嚼しながら、当然のような顔で続ける。


世界から隔絶された山奥で育った少年。たかしにとって、この古びた住宅街と新しいマンションが混ざり合う街並みは、未だに見知らぬ異郷の地なのだろう。


「え、私が……? 案内って……この街のこと?」


幸は戸惑うように呟き、少しだけ指先を顎に当てて考え込んだ。


いつも教室で怯えている彼女だが、この屋上でたかしと過ごす時間だけは、本来の素直な少女の顔に戻ることができた。


少し考えてから、ぱっと弾けたように顔を上げる。


「うん、いいよ! 日曜とか……空いてる?」


――そこまで言って、幸は自分の発言の重大さにようやく気がついたらしい。


日曜。学校の制服ではない、お互いの私服。誰もいない二人きりの空間。


(日曜日……私服……二人……それって、え……デ、デート……っ!?)


脳内で「デート」という二文字の単語が派手に爆発したのが、傍目から見ても完全にわかるほどの動揺ぶりだった。


彼女の白い耳の赤さが、今日一番の最高記録を瞬時に更新していく。


あまりの気恥ずかしさに頭がどうにかなりそうだったが、それでも、約束を撤回するようなことは決してしなかった。


「日曜、駅前の改札で十時とかでいいかなっ……!」


幸はそれだけを早口でまくし立てると、逃げるようにお茶のペットボトルを掴み、一気に口に運んでその大音量の心音を誤魔化した。


「そうしてくれると、とてもうれしいよ。日曜日十時ね。ランチは僕がごちそうするから、どこかレスト

 ランへ連れて行ってくれるかな」


ごく自然に放たれた、たかしの追撃。


その言葉が耳に届いた瞬間、幸の喉をお茶が逆流した。気管に思いきり入ったのか、盛大に激しくむせ返る。


「げほっ、ごほっ……レ、レストランっ!?」


涙目になりながら、大慌てでハンカチを取り出して口元を拭う幸。


たかが同級生からのランチの誘いに、ここまで地球の終わりかというほど動揺できるのも、ある意味で彼女の純粋な才能だった。


そもそも、粗食と厳しい修行がすべての寺暮らしをしている男の子が、女の子に「レストランを奢る」と言い出すのも、冷静に考えれば少し変な話だった。


だが、たかしの澄んだ瞳は至って真面目で、下心も気取りもない本気の発言であることは明白だった。


ようやく激しい咳が収まり、胸のドキドキを片手で必死に押さえながら、幸はおそるおそる、消え入りそうな声で問いかけた。


「……私、駅前のファミレスくらいしか知らないよ? それでも、いい……?」


自信なさげに「それでもいい?」と尋ねる幸。


しかし、彼女の伏せられた瞳の奥では、すでに「日曜日に着ていくための服」をクローゼットの中から必死に引っ張り出し、どれにするか真剣に悩み始めているのが、そのそわそわとした足先からありありと見て取れた。


そして迎えた日曜日。


朝から雲ひとつない、見事な秋晴れだった。城東高校の生徒たちが普段から利用している駅の改札前は、休日特有ののんびりとした人混みで賑わっている。


午前十時の五分前。桜井幸は、すでに約束の場所に立っていた。


いつも学校で着ているくたびれた制服ではなく、今日の彼女は清楚な白いブラウスに、ひざ下丈の柔らかなベージュのスカートを合わせている。


黒い髪も、いつもより時間をかけて丁寧に整えたのだろう。何度もスマートフォンの画面を確認しては、そわそわと周囲を見回すその姿は、初デートに臨む恋する少女そのものだった。


改札の向こうから歩いてくる背の高い郷田たかしの姿は、人混みの中でもすぐに分かった。


紺のソフトジャケットに、仕立ての良い真っ白なボタンダウンシャツ、そして履き慣れたジーンズ。


ごくシンプルな装いのはずなのに、彼の持つ独特の静謐な佇まいは、まるで絵本から抜け出してきた王子様のようだった。


たかしの姿を見つけた瞬間、幸の胸の奥で心臓が大きく跳ねた。と同時に、その瞳が完全に釘付けになる。


私服姿のたかしは、制服の時とはまるで印象が違っていた。すらりとしたモデルのような長身に、汚れのない白シャツが眩しいほどに映え、休日なのにどこか気品が漂っている。


改札を行き交う周囲の女性たちの視線が、ちらちらとたかしに向いていることに気づき、幸の胸の奥になぜか少しだけ、もやっとした小さな独占欲のような感情が湧き上がった。


「お、おはよう……」


声をかけたものの、緊張のあまり完全に上擦ってしまった。本当は「その服、すごく似合ってるね」と言おうとして口を開きかけたのだが、どうしてもそんな恥ずかしい台詞を素直に口にする勇気は出なかった。


代わりに幸は、自分のブラウスの裾を無意味に何度も引っ張って、皺を伸ばす仕草をして誤魔化した。


二人は自然と並んで歩き出す。幸は歩調を合わせながら、ちらちらと横目で彼の横顔を窺った。


「あの、どこ行きたいとかある……? 商店街とか、ちょっと先に大きめの公園もあるけど……」


並んで歩く二人の姿に、すれ違う人々が思わずといった風に振り返る。


身長差のある凸凹な組み合わせは確かに目を引いたが、それ以上に人々の目を奪うのは、たかしの纏う「空気」そのものだった。


彼はどこまでも物腰が柔らかく、小さな幸の歩幅に合わせて、ゆっくり、ゆっくりと歩いている。


秋の柔らかな日差しが、二人の影を仲良く短くアスファルトに落としていた。


「公園いいね。中国にもあるけれど、あちらはやたらと広くて、みんなあちこちの広場で太極拳をやって

 いるんだ。日本の静かな公園を、一度歩いてみたかったんだよ」


たかしの言葉に、幸は張り詰めていた緊張が解けたように、くすっと小さく笑った。


「中国の公園って、やっぱり太極拳のイメージなんだ。なんか面白いね。」


駅から歩くこと十数分、豊かな緑に囲まれた広大な総合公園に辿り着いた。


中央にある大きな噴水を中心に美しい遊歩道が広がり、秋の木漏れ日がベンチや鮮やかな芝生の上に、斑模様の光の粒を落としている。


日曜日の午前中の公園は、まだ人もまばらだった。のんびりと犬の散歩をする老人や、ベビーカーを優しく押す母親がちらほらと見える程度。


学校のあの刺すような視線から完全に切り離された、どこまでも穏やかで優しい空間。


幸は、木陰にある木製のベンチにたかしと並んで腰を下ろし、深く深呼吸をひとつ、ついた。


「はぁ……気持ちいい。学校のこと、忘れられる」


それは、幸の口から出た極めて貴重な一言だった。いつもなら「学校」という単語を口にするだけで怯え、表情を曇らせる彼女が、今は安らいだ穏やかな表情をしている。


ただ隣にたかしがいる、というその事実だけで、彼女を苛むあの教室の悍ましい記憶が、遠い過去のように遠のいていくのかもしれない。


幸は、ふと思い出したようにスマートフォンを取り出した。


「あ、そうだ。ランチのお店、この近くにあるの。イタリアンなんだけど……パスタが美味しいって評判

 で。あ、私が行ったことあるわけじゃないんだけどね!」


それは、彼女が昨夜、ベッドの中で何度も何度もこっそりネットを検索して調べておいた「予習」の成果だった。


スマホを少し恥ずかしそうに確認する指先の手つきに、その懸命な痕跡が残っている。


「イタリアン、いいね。イタリア料理と中国料理は麺類や素材の使い方が似ているって、以前イタリアか

 らの観光客が言っていたよ。 僕、中国のお寺にいた頃、外国人向けの観光ガイドを英語でやっていた

 んだ」


その言葉に、幸は目を輝かせて、ベンチから勢いよく身を乗り出した。


「え、観光ガイド!? たかし君が?」


あまりに意外な過去の片鱗に、驚きを隠せない。同時に、以前の英語の授業でたかしが流暢に話していた内容を、当時、自分が全く聞き取れていなかったことが、今になってまるわかりになってしまった。


「すごいなぁ……。私なんて、英語の成績やっと平均なのに」


感心しきった様子で、幸はトントンと両頬に手を当てて頬杖をつく。


木々から風に吹かれて一枚の枯れ葉がひらりと落ちてき、幸のベージュのスカートの上にぽつんと乗った。


彼女はその木の葉を小さな指先でつまんでじっと眺めながら、どこか遠い目をして、ぽつりと言葉を零した。


「……たかし君といると、自分がちっぽけに思えてくる」


それは、決して卑下ではなかった。ただ、純粋で素朴な感想として口をついて出た言葉だった。


あの獰猛な南雲信也を言葉一つで黙らせ、柔道部部長の鬼塚の本気の投げをあしらうほどに強くて、それなのにどこまでも穏やかで優しい。


今、隣で微笑んでいるこの人は、自分とは全く違う世界の住人のようで――それなのに、こうして自分と並んでベンチに座ってくれている。


その奇跡のような不思議さを、彼女は胸の奥で深く噛み締めているようだった。


公園の時計塔が、十一時を指して静かに鐘を鳴らした。


幸は、ぱん、と自分の膝を小さく叩いて元気よく立ち上がった。


「そろそろ行こっか! なんだかお腹空いてきちゃった」


案内されたイタリアンレストランの店内は、暖色の柔らかな照明にレンガ調のクラシカルな内装、そしてテーブルに敷かれた純白のクロスが、上品なアクセントになっていた。


日曜日の昼時とあって、店内は小洒落たカップルたちでほぼ満席だったが、幸が予約しておいたおかげで、窓際の静かな二人席がしっかりと確保されていた。


白いテーブルクロスの端に置かれた「ご予約席」という小さな立て札。用意された椅子の間隔は、思いのほかやたらと近い。


店員は当然のように、二人をそこへ微笑みながら案内した。


席に着いた瞬間、そのあまりの「デートらしさ」に、カップルという単語が幸の脳内で派手に炸裂した。


彼女は真っ赤になった顔を隠すように、手渡されたメニュー表を顔の真ん前にバッと掲げた。


しかし、緊張の極限に達していた彼女は、メニューが完全に上下逆さまになっていることには、しばらく気がついていなかった。


「パ、パスタ、二種類頼んで分けよっか……! そしたら、両方の味食べられるし!」


幸の提案で、お店の名物であるボロネーゼとカルボナーラを注文し、シェアすることにした。


最初に運ばれてきた前菜のカプレーゼを口にする頃には、幸の緊張もようやく少し落ち着いたらしい。


みずみずしいトマトと濃厚なモッツァレラチーズを交互に食べては、「美味しい……」と小さな声で何度も漏らして笑みをこぼす。


やがてメインのパスタが運ばれてくる頃には、彼女はすっかりお店の温かな雰囲気に馴染んでいた。


フォークを器用にくるくると使って麺を巻き、小さな取り皿へ手際よくたかしの分を取り分けていく。


ふと、彼女の手がぴたりと止まった。フォークを小さなお口にくわえたまま、幸は呟く。


「……なんか、こういうの、本当に久しぶりだな。誰かと一緒にご飯を食べて、心の底から楽しいって思

 えるの」


それは、彼女が何年もの間、奪われ続けてきた「普通の幸せ」の時間だった。たかしはそんな彼女を優しい眼差しで見つめ、そっとメニューを指差した。


「ドルチェも遠慮なく頼んでね。お金のことは気にしなくていいから」


それは、粗食の寺暮らしをしているとは思えないほど、男らしくて優しい申し出だった。


幸はティラミスにするかパンナコッタにするかで「うう……」と散々頭を抱えて悩んだ末、結局、両方とも注文した。


彼女の中にあった「遠慮」という名の最後の砦が、甘い誘惑の前に完全についに陥落した瞬間だった。


運ばれてきた美しい二つのデザート皿を前にして、幸が顔を伏せながら、胸の横で小さく「よしっ」とガッツポーズをしていたのは、たかしの優しさで、見なかったことにしておこう。


至福のドルチェを綺麗に平らげる頃には、幸の心は完全にリラックスしていた。普段の凍りついた教室では絶対に聞けないような彼女のプライベートな話が、堰を切ったようにぽろぽろとこぼれ始める。


小学生の頃の他愛のない思い出話、昔お家で大切に飼っていたハムスターのこと――。どれも事件性のない、ごく普通の少女の他愛もない話ばかりだったが、そのひとつひとつが、桜井幸という一人の少女の、本来の愛らしい輪郭を鮮やかに浮き彫りにしていく。


幸は、パンナコッタのガラスグラスを綺麗に空にすると、ふぅ、と満足げに温かい息をついた。


「ごちそうさまでした。……今日、本当に、ありがとう」


たかしが、会計をスマートに済ませて店を出ると、午後の秋の陽射しは少しずつ傾き始めていた。


二人は再び先ほどの公園へと戻り、大きな池のほとりをゆっくりと歩いた。


冷たくなり始めた風が水面を優しく撫でてキラキラとしたさざ波を作り、大きな鯉たちが、餌をねだるように水面から口をぱくぱくと開閉させている。


どこまでも穏やかで、満ち足りた時間。このまま何事もなく、楽しく終わるはずの日曜日だった。


しかし――。


公園の出口付近に差し掛かったその時。


色づいた大きな樹木の陰から、じっとこちらを凝視している「見覚えのある顔」がひとつ、不気味に浮かび上がっていた。


黒峰明美だった。


彼女は休日の私服姿のまま、感情の消え失せた硝子のような瞳で、並んで歩くたかしと幸の姿を、じっと、冷酷に見つめていた。


公園の出口、色づいた樹木の陰から二人を見つめていた黒峰明美の硝子のような瞳に、微かな、しかし決定的な変化が生じていた。


それは怒りや嫉妬といった、南雲信也が抱くような泥臭い感情ではない。


自分の精緻な盤面を狂わせる「不規則なノイズ」に対する、冷徹な排除の意志だった。


(……なるほど。あのこが、あなたの『外付けの心臓』なわけね)


明美はバッグからスマートフォンを取り出すと、並んで歩くたかしと幸の背中に向けて、音もなくレンズを向けた。画面の中に、親密そうに微笑み合う二人の姿が収まる。


郷田たかし単体のデジタルアーカイブは完璧に白紙だった。


だが、この街で生まれ育ち、この学園で信也たちに徹底的に擦り潰されてきた桜井幸という少女のデータは、ネットの海にいくらでも転がっている。


彼女の通信履歴、交友関係、家庭環境、そして学園内での哀れな立ち位置。


たかし本人に情報的な弱点がないのなら、彼が唯一、その懐に招き入れた「桜井幸」を徹底的にハッキングし、媒介メディアにすればいい。


明美の細い指先が、画面の上でせわしなく、かつ正確に滑り始める。



賑やかな商店街を抜け、二人の影を長く引きずる夕暮れの公園へと辿り着いた頃には、楽しかった街巡りの時間も終わりに近づいていた。


自販機で買ったあたたかいお茶の缶を両手で包み込みながら、幸はベンチで小さく息を吐いた。


たかしと過ごす時間は、冷え切っていた彼女の心に、これまで知らなかった温もりを優しく染み渡らせていた。


けれど、西の空が不吉なほど真っ赤に染まっていくのを見つめていると、どうしても胸の奥に、重く冷たい現実の影が這い上がってくるのを止められなかった。


「……あの、たかしさん」


幸は、お茶の缶を見つめたまま、消え入りそうな声で本音を漏らした。


「今日、本当に楽しかったです。……でも、楽しければ楽しいほど、怖くなってしまうんです。

 明日から、また学校が始まると思うと……足がすくんで、息ができなくなりそうで……」


月曜日になれば、またあの陰惨な教室が待っている。信也たちの容赦のない悪意と、クラスメートたちの冷酷な黙殺。


たかしがいくら守ってくれると言っても、自分自身の心が恐怖で壊れてしまいそうだった。


たかしは、そんな幸の震える横顔を、咎めることも同情することもなく、ただ静かに、北極星のような深い眼差しで見つめていた。


「桜井さん」


たかしは穏やかに声をかけると、懐から一冊の小さな手帳を取り出した。


そして、その白い上質なページを一枚、丁寧に指先で破り取ると、ポケットから取り出した万年筆を走らせた。


サラサラと、静かな金属音だけが夕暮れの公園に響く。


たかしの指先から紡ぎ出されたのは、驚くほど力強く、実戦の芯が通った、息を呑むほど美しい楷書の四字熟語だった。


たかしは、その紙切れを幸の前にそっと差し出した。


「中国に、僕の好きな言葉があるんだ。」


幸は、涙を堪えながらその紙を見つめた。そこには、凛とした墨のような文字で、こう書かれていた。


『天道酬勤』


「てんどう……しゅうきん、ですか?」


「はい。天の道理は、ひたむきに耐え、正しく生きようとする者を、絶対に見捨てず、必ず報いるという意味だよ。」


たかしの声は、いつになく厳かで、確固たる響きを孕んでいた。


「桜井さんがこれまで、理不尽な地獄の中で、たった一人で必死に耐えて、それでも正しくあろうとした孤独な歳月。それは、決して無駄にはならない。君が正しさを諦めない限り、世界の理は、天は、必ず君に光を返す。……夜は、必ず明ける。だから、自分を信じて、前を向いてくださいね。」


たかしは、その紙を幸の小さな手のひらにそっと載せ、包み込むように一度だけ頷いた。


その瞬間、幸の胸の奥で、カチリと何かが音を立てて噛み合った。


物のプレゼントではない。たかしがくれたのは、これから始まる闘いを生き抜くための、絶対的な「心の背骨」だった。


「天道……酬勤……」


幸は、その四つの漢字を心の中で何度も、何度も反芻した。涙が視界を滲ませたが、今度の涙は、恐怖からくるものではなかった。


彼女は、その手書きの紙切れを、世界で一番大切な宝物を扱うように、生徒手帳の透明なポケットの最前面へと、そっと、厳かに忍ばせた。


明日からの学校が、もう怖くないわけではない。


けれど、私のポケットには、あの人がくれた光がある。


私はもう、悪意に屈してうつむきはしない。


赤から紫へと移り変わる美しい夜の帳の下、二人は並んで歩き出す。


どこか遠くから、新しい一週間の始まりを告げるように、教会の鐘の音が、静かに、けれど力強く街へ響き渡っていた。


日曜日、午後九時。


黒峰明美が、アクセスしたのは、城東高校の生徒だけが匿名で書き込める非公開のローカル掲示板、そして学園内で爆発的な拡散力を持つ、いくつかの捨てアカウントだった。


『悲報:いじめられっ子の桜井幸、新入りの中国帰りに身体を売ってボディガードに雇う。本日駅前でデート目撃情報あり』


『郷田たかしの正体。中国の河南省で現地マフィアの少年兵だった説。だから柔道部でも不良の中村相手でも、異常な暴力を使った。桜井はそいつを学園に引き込んだ戦犯』



明美が脳内で編み上げた、極めて悪質で、それでいて思春期の高校生たちが最も好む「性的で暴力的な醜聞」のテキスト。そこへ、先ほど撮影したばかりの二人の私服写真を添付する。



誰もが自室のベッドの上でスマートフォンを眺め、翌日の登校に憂鬱さを抱いている、最も情報の感染力が高い時間帯。


明美がエンターキーを静かにタップした瞬間、毒に満ちた偽りの「情報」が、城東高校の生徒たちのタイムラインへと一斉に、音もなく奔流となって流れ込んでいった。



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