第5章 夕闇の暴風
一方その頃、放課後の校門近くにある駐輪場の陰で、不穏な二つの人影が密かに向き合っていた。
南雲信也と、隣町の不良グループを束ねるボス。金髪に派手なピアスを開け、城東高校の制服の前をだらしなく開け放った三年生 ― 名前を中村という。
中学時代からその狂暴な素行不良ぶりで、地元では知らぬ者のいない札付きの男だった。
信也は周囲を警戒するようにスマートフォンを弄りながら、淡々とした、しかし低く冷酷な声で話す。
「別に大したことじゃないっすよ。ちょっと痛い目見てもらえればそれで。先生にはバレないようにやっ
てほしいんすけど」
中村はポケットに手を突っ込み、やに臭い歯を剥き出しにしてにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「あのでかい編入生だろ? 面白そうじゃん。任せとけよ」
同じ頃、放課後の昇降口。
下駄箱の前で上履きからスニーカーへ靴を履き替えていたたかしに、不意に声をかけてきた者がいた。
見覚えのない、金髪の三年生。体格はたかしよりわずかに小さいくらいだが、首が異様に太く、威圧感を放っている。
放課後の校舎に残っている時点で、普通の生徒なら部活か補習の類だろうが、男から漂う空気はどう見てもその手の真面目な人間のものではなかった。
「よう。お前が噂の帰国子女? ちょっと話あんだけど、付き合ってくんない?」
口調こそ軽薄だが、その目は一切笑っていない。
気づけば、男の背後には同じように濁った目をしたが体格の良い二年生が二人、たかしの退路を完全に塞ぐようにして立っていた。
「話」の中身が穏便なものでないことなど、彼ら三人から放たれる明確な敵意のオーラが雄弁に物語っている。
「はい。先輩、なんでしょうか?」
しかし、たかしは驚くほど自然体のまま、いつもの穏やかな微笑みを絶やさなかった。
怯えるわけでも、身構えてひるむわけでもない。
まるで親しい友人に話しかけられたかのような、あまりにも無防備で淀みのない佇まい。
その様子を見た中村の眉が、わずかにピクリと動いた。
普通、これだけの人数に囲まれれば、どんなに虚勢を張っていても多少は動揺が顔に出るものだ。
だが目の前の少年は、まるで春の陽だまりの中にいるように微笑んでいる。
(……なんだこいつ。気味が悪い野郎だ)
それが、修羅場をくぐってきた中村がたかしに抱いた、最初の本能的な違和感だった。
「まあ、そう固くなんなって。ちょっとツラ貸してくれりゃいいからよ」
中村が首を鳴らし、顎で促す。
連れていかれたのは、中庭の裏手。放課後は完全に死角となる、部室棟の影になった人気のない一角だった。
傾きかけた夕方の陽光が建物のコンクリート壁に遮られ、足元にはひんやりとした薄暗い空気が澱んでいる。
中村はたかしと正面から向き合うと、背後に控える二人の後輩に顎で冷酷に目配せした。
「信也って知ってるだろ。あいつに頼まれてさ。まあ要するに――」
言い終わるよりも早く、中村の右拳が爆発的な速度でたかしの顔面めがけて飛んだ。
何の前触れもない、完全な不意打ち。喧嘩慣れした最短距離の軌道は鋭く、体重のすべてが乗った強烈なストレートが、ヒュッ、と空気を裂く鋭い音を立てる。
それと同時に、後ろの二人もたかしの自由を奪うべく、両側からその太い肩を掴もうと一斉に手を伸ばした。
三対一の奇襲。卑怯極まりないが、それこそが彼ら不良の確実な流儀だった。
――だが。
その凶悪な三つの暴力は、すべて虚しく空を切った。
たかしは、まるで最初からそこにいなかったかのように、わずか拳一つ分だけ顔を横に逸らしていた。
いつ動いたのか、その予備動作すら誰の目にも映らなかった。
そして、彼の顔からあの穏やかな微笑みは消えていない。
中村の拳の先にあるはずの肉体がない。渾身の力を込めた空振りの勢いで、中村の身体は前方に大きく流れ、つんのめりそうになる。
「――は?」
背後の二人も同様だった。たかしの肩へ鋭く伸ばしたはずの手は冷たい虚空を掴み、勢い余ってバランスを崩し、互いの身体を激しくもつれ合わせた。
三人がかりの、しかも完全な不意打ちでありながら、衣服の端にすら触れることすらできない。
そのあまりの異常事態に、全員の表情から一瞬にして余裕が消え失せていく。
薄暮の澱んだ空気の中、たかしだけが変わらぬ微笑みを浮かべたまま、静かに佇んでいた。
背の高い彼の輪郭が、わずかに差し込む夕陽の逆光を受け、まるで巨大な影絵のように不気味に浮かび上がる。
中村の額から、タラリと冷たい汗が滲み落ちた。
「おい、ふざけてんのか……! 避けてんじゃねえよ!」
怒号とともに、今度は三人同時に動いた。
中村が正面から肉薄し、左右の後輩が挟み込むようにして退路を断つ完璧な包囲。
しかし、彼らが地面を蹴って足を動かした瞬間にはもう、たかしの立ち位置と間合いはまるで手品のように変化していた。
捕まえられない。
どれほど必死に手を伸ばし、殴りかかろうとも、たかしの身体はどこまでも水のように、あるいは煙のように指の間をすり抜けていく。
五分、十分と、無駄な暴力を振るう時間だけが虚しく過ぎていった。中庭に響くのは、不良たちの荒い呼吸音だけ。
やがて、完全に体力を消耗し尽くした三人が、肩を激しく上下させて膝に手をつく頃になっても―
たかしはとうとう、ただの一度も手を出さなかった。自衛のための反撃すら、していない。
「黙って殴られるのはごめんですから。……ですが先輩方、動作が大きすぎます。それでは、人は殴れません」
たかしは息一つ乱さず、諭すように静かに言った。
中村は膝をガクガクと震わせながら、這うように顔を上げた。その瞳には、強烈な屈辱と、それを遥かに上回る深い困惑が入り混じっている。
殴れないのではない。そもそも、自分たちの次元では「殴らせてもらえない」のだという残酷な現実を、叩きのめされた肉体が完全に理解してしまっていた。
これまでの喧嘩人生で、こんな怪物に出会ったことは一度もない。
左右の二人に至っては、もう完全に戦意を喪失していた。
一人は恐怖で顔を青ざめさせながら壁にぐったりともたれかかり、もう一人は足の力が抜けたように地面にへたり込んでいる。
中村だけが、狂ったようなプライドで辛うじて二本の足で立っていたが、その肩の上下は止まらない。
中村は足元にペッと唾を吐き捨てると、たかしを睨みつけた。
「……覚えてろよ」
それは、彼のような不良が吐く捨て台詞としては、最も安っぽく、最も惨めな類のものだった。
中村はへたり込む二人の肩を乱暴に叩いて立ち上がらせると、まるで背後から何かに追われているかのように、足早に中庭から去っていった。
制服の背中にべっとりと滲む冷や汗と、決して拭いきれない未知の恐怖。
自分たちとは決定的に「格が違う」と、身体の芯まで思い知らされた敗北者の、哀れな足取りだった。




