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第4章 柔道場の「幽霊」

その日の午後、二クラス合同で行われていた柔道の授業は、独特の熱気と緊張感に包まれていた。


青い畳が敷き詰められた柔道場に、柔道着に身を包んだ男子生徒がずらりと並ぶ。


その最前列に、柔道部部長である鬼塚が、太い腕をがっしりと組んで立っていた。


身長180センチメートル、体重120キログラム。高校生というよりは重機のようなその巨体から、「まず受け身から」と地響きのような低い声で指示が出される。


そんな鬼塚の背後に、南雲信也がにこやかな笑顔を張り付けながら近づき、その道着の袖を引いて耳打ちした。


だが、笑っている口元とは裏腹に、その目だけは冷酷に据わっている。


「鬼塚先輩、あいつ帰国子女だから柔道とかやったことないと思うんすよ。ちょっと手荒くても大丈夫っす。先生も怒んないっしょ」


信也の言葉に、鬼塚は無言で彼を一瞥し、それから列の端にいる郷田たかしへと視線を移した。

その大柄な体躯を品定めするように、値踏みする目を向ける。


「じゃあ次、乱取りやるぞ。希望者は前へ」


鬼塚が声をかけると、待っていましたとばかりに信也が真っ先に手を挙げた。そして、まっすぐにたかしを指差す。


「俺、あいつとやりたいっす」


周囲の生徒たちがにわかにざわめいた。「マジかよ?」「信也、完全にやる気じゃん」と、格好の娯楽を見つけたような野次馬の声が上がる。


鬼塚は何も言わず、ただ顎をしゃくって、たかしと信也に畳の中央へ来るよう促した。周囲の生徒たちが下がり、二人分の広いスペースだけが残される。


信也が闘志を剥き出しにして畳を踏みしめる中、たかしは全く足音を立てずに進んできた。まるで幽霊のようだった。


畳を踏んでいるはずなのに、衣服の擦れる音すらしない。


体育館のフローリングでもなく、柔らかく沈み込むはずの畳の上でさえ、足が沈む音すら起きなかった。


見学していた他クラスの生徒の何人かが、奇妙な違和感に首を傾げる。


「あいつ、どうやって歩いてんだ……?」と、誰かが怯えたように囁いた。


二人が向かい合って構えた瞬間、信也の背筋にぞわりと冷たい何かが走った。


(……なんだこれ。目の前に立っているのに、気配が薄すぎる)


掴もうとしたはずのたかしの襟元が、まるで幻のように遠くに見える錯覚。信也の額に、じわりと嫌な汗がにじむ。


「始め!」


鬼塚の野太い号令が響いた途端、信也は電光石火の大外刈りにいった。


重心を低く落として一気に間合いを詰め、たかしの袖と襟を強引に掴みにいく。


それは、柔道部仕込みの容赦のない突進だった。


その速さは、周囲の一般生徒の目には残像しか見えなかっただろう。


しかし、信也の両手は空を切った。


「は――?」


掴んだ、と確信した瞬間には、もうそこにたかしの身体はなかった。まるで透明な水を相手にしているように、力を込めて握り込もうとした先から、するりと実体が抜けていく。


勢い余った信也の体勢が、大きく前のめりに崩れた。


次も同じだった。どれだけ鋭く踏み込んでも、やんわりとかわされる。組み手にすらならない。そもそも、触れることすらできないのだ。


二度、三度と死に物狂いで組みにいこうとする信也の手が、ことごとく空振りしていく。


力任せに引こうとすれば自分の体重ごと前方へ流され、素早く襟を取ろうとすれば指先が道着の布地をかすめるだけ。


青い畳に映る二つの影は、まるで必死に牙を剥く猫と、それを嘲笑う幽霊のようだった。


信也の息が、見る見るうちに上がっていく。


「くっ……てめっ……!」


焦りと苛立ちで大振りになった右手を、たかしが優しく包み込むようにして取った。


手首に触れたのは、ほんの一瞬。次の瞬間には、信也の身体は重力を失ったように宙を舞っていた。


ドガァン! と、背中から畳に叩きつけられる凄まじい轟音が武道場に響き渡る。


信也は自分がどう投げられたのかすら理解できず、受け身すら取れなかった。


天井の白い蛍光灯が視界いっぱいに広がり、肺の中の空気が力任せにすべて押し出され、息ができない。


「……一本」


静まり返った武道場に、鬼塚の低い判定だけが厳かに落ちた。


誰一人として、声を出すことすらできなかった。


「今の、一体何が起きたんだ……?」と、自分の目を疑うように生徒たちが顔を見合わせる。


たかしは畳の反対側に静かに立ち、深く礼をした。


激しい乱取りの直後だというのに、呼吸一つ、髪一筋すら乱れていない。


審判を務めていた鬼塚は、目の前の編入生が只者ではないと完全に見抜いていた。


そして彼の内にある「武を志す者」としての血が、純粋にたかしと戦ってみたいという衝動に突き動かされる。


「模範として投げ技を見せる。そこのでかいの、相手をしろ」


それは前代未聞の指示だった。現役の柔道部部長であり、県内でも屈指の強豪である鬼塚が、一般生徒を相手に本気で技を掛けようというのだ。


鬼塚はいきなりたかしの襟を鷲掴みにすると、そのまま自らの十八番である「背負い投げ」の体勢へと猛然と入り込んだ。


手加減など一切ない、文字通りの本気の投げだった。


強烈な遠心力に伴い、たかしの身体が宙に綺麗に飛ぶ――が、彼は空中でありえないほど滑らかに身を翻すと、そのまま両足でしっかりと畳に着地した。


倒れることすら、しなかった。


鬼塚の目の色が変わった。再び猛然と襲い掛かり、今度は強烈な足払いを伴う「払い腰」を繰り出す。


たかしの身体が大きく浮き上がった。


しかし、それすらも、たかしは何事もなかったかのように、再び静かに二本の足で畳の上に立っていた。


「それまで! そこまでだ!」


ただならぬ気配を察知した体育教師が、慌てて二人の間に割って入ってきた。


「鬼塚、お前なにマジになってるんだ! 一般の生徒に怪我をさせるつもりか!」


鬼塚は、肩を激しく上下させながら体育教師を振り返った。「すみません」と口では謝罪したものの、その目は獰猛に笑っていた。


本気の背負い投げを食らいながら、空中で姿勢を制御して両足で着地した人間など、これまでの人生で見たことがなかった。


払い腰で強引に飛ばしても、まるで猫のように音もなく回転して着地してしまう。


(化け物か……!)


鬼塚はそう戦慄すると同時に、胸の奥底から狂おしいほどの熱い感情が湧き上がるのを感じていた。


それは、真の強者に出会えたことへの、純粋な歓びだった。


柔道場は完全に騒然としていた。


「おい、今たかし飛んだよな?」


「嘘だろ、あの巨体に投げられて両足で立ってたぞ」


「鬼塚部長の本気の投げだぜ……?」


口々に驚愕の声が上がる中、当のたかしは乱れた道着の襟元を丁寧に直しながら、軽く頭を下げていた。


まるで散歩の途中でそよ風に吹かれただけのような、どこまでも涼しい顔だった。


信也は、ようやく畳から這い起き上がると、壁際で小さく膝を抱えたまま、中央に立つ二人を凝視していた。


その顔に浮かんでいるのは、怒りでも悔しさでもない、もっと複雑で、底の知れない恐怖が混ざった感情だった。


鬼塚がゆっくりとたかしに歩み寄り、その大きな、熊のような手を差し出した。握手。


「お前、何者だ」


「二学期から、こちらに編入してきました。郷田たかしと申します。先輩の投げは、見事ですね」


握り返された手から伝わる驚異的な芯の強さに、鬼塚はまた目を見開いた。「見事」と言われて悪い気はしない。


だが本音を言えば、自分の最大威力の投げをまともに食らって平然と立っている人間に褒められても、素直には喜びきれなかった。


「見事なのは、お前のほうだろ」


鬼塚は短く笑い、それ以上は何も言わずに元の位置へと戻っていった。「よし、稽古再開!」と声を張り上げると、呆然としていた部員たちが慌てて動き出す。


体育教師は腑に落ちない顔をしながらも、授業の進行を優先せざるを得なかった。


信也は、力なく立ち上がると、他の生徒に紛れて制服に着替えるふりをしながら、足早に更衣室の闇へと消えていった。


その丸まった背中には、いつものクラスを牛耳る堂々とした陽キャの面影は、どこにも残っていなかった。


それから数日間、クラスに奇妙な静寂が訪れた。


南雲信也は、桜井幸に対する表立った嫌がらせをピタリと止めた。


それに伴い、取り巻きの生徒たちもどう動いていいか分からず戸惑い、いつも教室を支配していたいじめっ子グループは、不気味なほど大人しくなっていた。


だが、彼らが完全に牙を抜かれたわけではなかった。


放課後、無人になった更衣室の影で、信也が険しい表情で誰かに電話をかけているのを目撃した生徒がいた。


通話相手の声までは聞き取れなかったが、信也の口から漏れた、低く湿った声だけは、確かにその生徒の耳に残ったという。


『――ああ、間違いない。正面からやってもあの化け物には勝てねえ。だから、調べるんだよ。……あいつの「弱点」をな』


南雲信也が更衣室の闇で、焦燥を隠せずスマートフォンに吐き捨てた「あいつの弱点を探れ」という密命。


その電波の行き先は、教室の窓際、城東高校のカーストの底流を音もなく支配する少女――黒峰明美へと繋がっていた。


明美は窓際の席に深く腰掛け、長い黒髪の隙間から、女子生徒たちに囲まれて困ったように笑う郷田たかしをじっと凝視していた。


その瞳には、嫉妬とも怒りとも違う、ただ均一で、冷酷な拒絶の光が宿っている。


あの中国の山奥から来た素性の知れない男は、信也の命令を奇妙な独善的解釈で無力化し、体育でも、学業でも、やがては怯えていた生徒たちの信望をも静かに集め、信也以上に目立ち始めている。


明美は感情の起伏を一切見せない平坦な顔のまま、膝の上のスマートフォンに細い指先を走らせた。


彼女の天才的なハッキングスキルを以てすれば、この学園の生徒の秘密や不正、家族の過ちに至るまで、社会的に抹殺するための「弾薬」を揃えるのは容易い。


自分からは決して手を下さず、情報の網で標的の退路を断ち、他者を操って自滅させる。それが明美の、最も洗練された残酷なやり方だった。


郷田たかし。あの穏やかな仮面の裏に何が隠されているのか。明美の網膜に、標的を完全に解体するための冷徹な計算が、音もなく描き出されていった。


だが、数日を経てもなお、明美のスマートフォンに表示される画面は変わらなかった。


せわしなく滑る細い指先。画面が放つ淡いブルーライトが、彼女の抑揚のない瞳を冷たく照らし出す。


――謎だった。これほど徹底的に、個人の痕跡が「存在しない」人間に、明美はこれまで遭遇したことがなかった。


彼女のスキルがあれば、通常の高校生はおろか、その親の世代の秘匿された過去、隠し口座の記録、暗号化された通信履歴すらも白日の下に晒すことは容易だった。


ネットという広大な海に、人間は必ず何かしらの歪みや足跡を残す。現代社会において、情報的に完全な透明人間など存在し得ないはずだった。


しかし、郷田たかしの検索結果は、奇怪なほどに真っ白だった。


彼は、現代の若者の誰もが依存しているSNSを一切利用していなかった。アカウントの一つすら存在しない。


いくつかの防犯カメラのログや公的機関のデータベースの隙間を縫って、ようやく掴めたのは、東京で生まれ、幼少期を米国のロサンゼルスで過ごし、わずか七歳という年齢で中国の河南省へ渡った、というあまりにも大まかで断片的な経歴だけだった。


それ以降の十年間、彼が大陸の奥地でどのような足跡を辿ったのかについては、いかなるデジタルアーカイブも、国家の通信網すらも沈黙を守っていた。


現在の彼の身元を辛うじて保証しているのは、城東高校からほど近い、鬱蒼とした竹林に囲まれた古い禅宗の寺院だった。


たかしは現在、その寺の薄暗い一室に下宿しており、学校への身元保証人として登録されているのは、その寺の高齢の和尚。


戸籍や編入の手続きに法的な不備は一切ないが、それ以上の個人的な背景は、まるですべてが深い霧の向こう側に、意図的に隠蔽されているかのようだった。


明美はスマートフォンの画面を消し、冷え切った硝子のような瞳を、再び教室の向こうへと向けた。


弱みがない。


脅迫に使えるような過去の過ちも、家族の不正も、ネットの闇に転がる醜聞も、何一つ見当たらない。


これまでどんな人間をも掌の上で転がし、自滅に追い込んできた明美にとって、情報という絶対の武器が通用しないたかしの存在は、得体の知れない不気味な空白として、彼女の胸の奥に冷たい苛立ちを刻み始めていた。


その日の放課後。部室棟の裏手は、吹き付ける激しい潮風が建物のコンクリート壁に遮られ、不気味な風だまりを作っていた。


どんよりとした曇天から、今にも次の雨が降り出しそうな寒空の下。


南雲信也は壁に背を預け、いら立った様子で煙草に火をつけようとしていたが、隙間から吹き込む強風に阻まれて火が点かず、激しく毒づきながらライターをポケットに突っ込んだ。


その顔は、ここ数日の柔道場での失態、そしてたかしの台頭によって、激しい屈辱と怒りに歪んでいる。


「おい、明美。あいつ、弱みがねえのか? 早く潰してぇんだけど」


信也の声は地を車うように低く、苛立ちを隠しようともしなかった。


空手で鍛え上げたその拳を強く握りしめ、いつでも目の前の壁を殴り殺さんばかりの凶暴性を剥き出しにしている。


正面からの武力で勝てないという恐怖が、彼を内側から狂わせていた。


その傍らで、黒峰明美は細い指先でスマートフォンの冷たい画面をなぞりながら、表情一つ変えずに小さく首を横に振った。


その淡々とした仕草が、かえって事態の異様さを際立たせる。


「謎。一切、痕跡がないの。デジタルな足跡も、過去の醜聞も、脅迫に使えるような家族の不正すらも、何一つ出てこない。あんな奴、初めてよ」


明美の声には、感情の起伏が全くなかった。


しかし、その硝子のような瞳の奥には、自分の絶対的な武器である「情報」が通用しない相手に対する、

冷徹なまでの観察と、かってない計算が渦巻いている。


信也はチッと激しく舌打ちをし、地面の小石を乱暴に蹴り飛ばした。


「チッ、胸糞悪い新入りめ。ネットにねえなら、直接身体からだに訊くしかねえな」


傲慢な支配者の瞳に、暗い暴力的衝動が再び火を灯す。


どんなに澄ました顔をしていようと、痛めつければ必ず悲鳴を上げる。あるいは、あの男が庇おうとしている「駒」を握れば――。


その確信だけが、信也の歪んだ自尊心を辛うじて支えていた。


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