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第3章 雨の日の訪問者

その日は、朝からしとしとと冷たい秋雨が降り続いていた。


空は低く垂れ込め、いつもなら二人の避難所となる屋上への鉄扉は、無情にも施錠されている。昼休み、桜井幸は行き場をなくし、重苦しい空気が澱む教室の自席にいた。


周囲の喧騒から逃れるように机に深く突っ伏し、じっと息を潜める。


「あ……」


不意に、頭上からあの独特の穏やかな気配を感じて、幸は弾かれたように顔を上げた。慌てて姿勢を正す。


机の周りには相変わらず誰も近寄らない。それどころか、今日の彼女は弁当箱すら机に出していなかった。

自分に向けられる悪意の視線に耐えながら食事をする気力が、どうしても湧かなかったのだ。


そんな彼女の前に立っていたのは、購買のパンを片手に持った郷田たかしだった。


「た、たかしさん……なんで、いつも私のところに……」


無意識のうちに、呼び方が「くん」から「さん」へと変わっていた。本人すら気づいていない。


ほんの小さな変化。だがそれは、幸の中でたかしという存在が、単なる同級生を超えて少しずつ、しかし決定的に大きくなっている証拠だった。


教室の対角線上では、取り巻きたちと弁当を食べていた須田涼が、こちらを値踏みするように観察する冷ややかな目を向けている。


「日本の高校では、お昼は友達と一緒に食べるんだろ。一緒に食べようよ」


たかしは、それが世界で最も当然の決まり事であるかのように、迷いのない声で言った。


「と、友達……」


幸はその単語の響きを、胸の奥で深く噛み締めるように小さく呟いた。


胸を突く温かさに突き動かされるようにして、彼女は机の横の椅子をおずおずと引き、鞄の奥から弁当箱を取り出した。


そっと開けられた蓋の下には、丁寧に作られた卵焼きとウインナー、そして、小さなうさぎのピックがちょこんと刺さったおにぎりが並んでいる。


「わ、私のお弁当……こんなのしかないけど……」


恥ずかしそうに頬を染め、幸は中身を隠すように蓋を半分だけ開けた。


体躯の大きなたかしが購買のパンをかじり、その隣で小さな幸がおにぎりを縮こまって食べる姿は、さながら大型犬と小動物の微笑ましい食事風景のようだった。


クラスメイトたちは関わり合いを恐れて見て見ぬふりを決め込んでいるが、それでも何人かは、二人の奇妙な距離感にちらちらと好奇の視線を送っている。


「仲良しだねー」


不意に、背後から声をかけてきたのは涼だった。


顔にはいつもの爽やかな笑顔を張り付け、手にはカフェオレの紙パックを持っている。


「ねえ、僕も混ぜてよ。一人で食べるの寂しくない?」


一見すると気さくで親切なクラスメイトの言葉に聞こえるが、その奥にある目は一切笑っていなかった。この男が何の意図もなく、わざわざ底辺の席に近づくはずがない。


南雲信也から何らかの指示を受けての偵察か、あるいは――この異質な転校生に対する、純粋な観察欲求か。


「それは嬉しい。このクラスの人はいい人ばかりだ」


たかしは涼の底意を完全にスルーし、心からの笑みを返した。


「あはは、いい人ばかりか。キミ、本当に日本の高校初めてなんだね」


涼はたかしの向かいの席の椅子を勝手に引き、流れるような動作で足を組んで座った。自分の弁当は持ってきていない。ただ、品定めをするような目でたかしを見据える。


「じゃあさ、先輩としてひとつ教えてあげるよ。この学校には暗黙のルールがあるんだ」


涼はふっと声を落とした。信也たちにも、そして隣にいる幸にも聞こえないはずの、極めて小さな音量。


「信也に逆らい続けると、最終的に居場所がなくなる。過去には自主退学に追い込まれた子もいるんだ。キミみたいに身体が大きくたって関係ない。 学校っていうのは、そういう残酷な社会だからね」


「……」


しかし、その言葉は幸の耳にしっかりと届いていた。


彼女はまるで叩かれるのを待つ犬のように耳を伏せて俯き、箸を持つ細い手が小刻みに震えだす。居場所を奪われる恐怖、退学という言葉の重み。


彼女はその痛みを誰よりも知り、慣れきっていた。聞きたくなくても、怯えがその音を拾ってしまうのだ。


ちょうどその時、廊下を通りかかった信也が、涼の声に反応したように一瞬だけ足を止めた。


「南雲君が学級委員長だったんだ。知らなかった。だから色々教えてくれていたんだね」


たかしの声が、静まり返った教室にまっすぐ響き渡った。


廊下で振り返りかけていた信也の身体が、硬直した。


次の瞬間、信也は苦虫を噛み潰したような顔で激しく舌打ちをすると、そのまま踵を返して去っていった。

取り巻きの一人が「信也、どうしたんだよ?」と怪訝そうな顔で追っていくが、信也は何も説明しなかった。


学級委員長――。誰もそんな役職の話などしていない。当の信也だって、一度も自分からそんな殊勝な肩書を名乗ったことはない。


ただのいじめの主犯格を、たかしは本気で「面倒見の良い学級委員長」だと解釈していたのだ。


「……ぶっ」


席を立ち、自分のグループへ戻ろうとしていた涼が、耐えきれずに吹き出した。


端正な肩が激しく揺れている。周囲の手前、必死に声を殺そうとしたようだが完全に失敗していた。


涼は信也のあのプライドを粉々にされたような顔を思い出し、声を殺して笑い転げながら、そのまま教室を出て行ってしまった。


「……が、学級委員長……?」


幸もまた、ぽかんとした顔で隣のたかしを見上げていた。


いつの間にか、彼女の震えていた手はぴたりと止まっている。信也への恐怖と、たかしのあまりにも的外れで強力な勘違いへの可笑しさが混ざり合い、なんとも言えない複雑な表情がその顔に浮かぶ。



「ぷ……ふふ……っ」



張り詰めていた幸の唇から、小さな笑い声が零れ落ちた。今週に入って、二度目の笑み。


郷田たかしという男が放つ言葉は、いつも牙を剥く悪意をただの「滑稽な冗談」に変え、

凍りついた教室の空気を、意図せず鮮やかに塗り替えていくのだった。


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