第2章 日だまりの坐禅
その日の昼休み、桜井幸はいつものように、重い鉄製の防音扉の向こう側――世界から隔絶された屋上の片隅にいた。
膝の上の小さな弁当箱から、卵焼きをひとつ、力なく口に運ぶ。鈍色の海から吹き付ける秋風は、彼女の細い肩を容赦なく冷やしていくが、あの悪意の充満した教室にいるよりは、凍えるような風の中にいる方が何倍も息がしやすかった。
カサリ、と上履きの泥汚れが溜まらないほど綺麗に掃き清められた踊り場の向こうから、微かな気配が近づいてきた。
足音は全くしなかった。ただ、大気が動くような独特の静けさに幸の身体が本能的に危険を察知し、びくっと肩が跳ねた。咄嗟に、中身の貧相な弁当箱を隠すように身体を横に向ける。
「やあ」
振り返ると、そこにいたのは郷田たかしだった。その大きな手には、購買で買ったらしい、何の変哲もない調理パンが二つ握られていた。
「あ、あの……たかし君。ど、どうしてここに……?」
上擦った声が風に浚われていく。屋上には二人以外、誰もいない。
フェンスの向こうからは、校庭で泥にまみれてボールを追いかける男子たちの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように響いている。
幸は普段からここで一人、息を潜めるようにして昼食をとっている。誰にも教えたことのない、彼女だけの避難所だった。
たかしは幸の怯えをあらかじめ知っているかのように、それ以上は近づかず、少し離れたコンクリートの段差に腰を下ろした。
彼が手にする二つのパンを見つめるうち、幸の強張っていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「もしかして、ここで食べるの……?」
警戒と、それから胸の奥から小さく湧き上がる嬉しさが半々になったような、複雑な眼差し。おにぎりの包みを膝の上で固く握りしめたまま、幸はたかしとの間に微妙な距離を保っている。
「一人でいたい」という長年の防衛本能と、「一人じゃなくてもいいのかもしれない」という淡い期待が同居する、そんな曖昧な空白が二人の間に横たわっていた。
「ここは見晴らしがいいね。僕は中国の僻地の山の中に長くいたから、こういう街の景色に惹かれるんだ」
たかしは購買のパンの包装をあどけない手つきで破ると、大きく一口かじり、目を細めて屋上からの眺望を見渡した。
その穏やかな横顔に促されるようにして、幸は風に乱れる黒髪を押さえながら、たかしの隣に少しだけ、ほんの数センチメートルだけ身体を寄せた。
さっきまでの、刺されるような緊張が少しずつ解けていく。
「僻地の山って……どんなところだったの?」
自ら問いかけておきながら、幸はハッとしたように両手で口元を押さえた。他人の過去に深く踏み込みすぎてしまったのではないか、という恐怖が頭をよぎったのだ。
「ごめん、答えたくなかったら別に……」
早口で付け足し、視線を落とす。これほど端正な少年と並んで座っているこの状況自体が、まるで現実味のない白昼夢のようだった。
幸の小さな足先が、そわそわと落ち着かなげに地面の砂利を擦る。
屋上から見下ろす街並みは、駅前のロータリーを中心に、錆びついたトタン屋根の古い住宅街と、新興の白いマンションが不揃いに入り混じっていた。
遠く、城東高校の敷地の境界に立つシンボルツリーの欅の大木が、秋の乾いた風に激しく揺れている。
幸は、自分の膝の上の弁当にぽつりと目を落とした。
「……私、家族で旅行とかしたの、いつのことだったかな」
言ってしまってから、あまりの場違いな告白に、幸は激しい後悔とともに唇を噛んだ。だが、口から出た言葉はもう戻らない。
パンの袋がくしゃりと丸まる音と、遮るもののない風の音だけが、気まずく二人の間を通り抜けていく。
そんな幸の自責を和らげるように、たかしは静かに語り出した。
「奥地の山の中のお寺にいたんだ。禅宗のお寺。日本に戻ってきても、今は学校の近くの禅宗のお寺に下宿している。」
幸は目をぱちくりとさせて、たかしの顔をまじまじと見つめた。目の前にいる、現代の流行には疎いものの、完璧な英語を話し、圧倒的な身体能力を持つイケメンの少年。
その姿と「お寺」という古めかしい響きが、彼女の頭の中でうまく結びつかなかった。
「お寺……お坊さんの修行みたいな?」
聞き方は、まるで幼い子供のように素直だった。普段、教室の隅でびくびくと周囲の顔色を窺っている陰鬱な少女とは、まるで別人のような、純粋な好奇心に満ちた表情。
風に乗ってパンくずがコンクリートの上を転がっていくのを、幸は小さな子供のように目で追いながら、抱え込んでいた体育座りの膝を少しだけ緩めた。
少しの間を置いて、幸は自分でも驚くほど自然に、再び口を開いていた。
「じゃあ、座禅とか組んだりするの? あの、足の長いやつ……」
座禅の正式な組み方である「結跏趺坐」の形を、どう表現していいか分からず、「足の長い」と言ってしまった自分の語彙力に、本人が一番気恥ずかしくなったのだろう。
幸の白い耳の先が、じわりと林檎のように赤くなっていく。
だが、その羞恥心を上回るほどに、誰かとこうして「普通」の会話を交わすことが、彼女にとっては気の遠くなるほど久しぶりのことだったのだ。
弁当の箸を持ったまま、食べることも完全に忘れて、たかしの返事を待っている。
「坐禅はいいよ。何もかも忘れて、無になる修行だから。悩みも苦しみもなくなるんだ」
その言葉が屋上の空気に溶けた瞬間、幸の持つ筷子がぴたりと止まった。
何もかも忘れて、無になる。
その一言が、まるで乾いた砂に染み込む水のように、彼女の傷ついた胸の奥底にすとんと落ちた。幸はしばらくの間、言葉を失って遠い海を見つめていた。
「……いいなぁ、それ」
風に掻き消されそうなほど小さな声だったが、そこには痛切なまでの羨望が滲んでいた。「悩みも苦しみもなくなる」という言葉が、どれほど深く幸の過酷な現実に突き刺さったか、
彼女の痛々しい横顔がすべてを物語っていた。目の下にうっすらと刻まれた疲弊の隈。
会話の途中で無意識に、衣服の袖を引っ張って左手首の青あざを隠そうとする指先の震え。
彼女の日々が、無になることとは程遠い、絶え間ない精神的暴力に晒されていることは明白だった。
幸は、ハッと我に返ったように激しく首を振り、自身の内に広がる暗い深淵を隠すように、無理やり唇の両端を吊り上げた。ぎこちなく、今にも崩れてしまいそうな、精一杯の作り笑い。
「あは、ごめん。なんか暗くなっちゃったね。私、こういうとこほんとダメだなぁ」
昼休みの終わりを告げるチャイムまで、あと十五分ほど。屋上を渡る風は次第に温度を下げ、肌寒さを増していたが、二人が並んで座るコンクリートの日だまりだけは、まだ微かな温もりを保っていた。
「なんで謝るの? 日本に戻って凄く驚いたのが、暗いとか明るいとか、みんな結構気にするよね。でもそれって、ただの個性じゃないのかな。暗いのがダメだというなら、僧侶は葬式の席でも笑っていなきゃならなくなる」
幸は、ぽかんとした顔でたかしを見つめ、それからゆっくりと瞬きをした。何か信じられないものを咀嚼するように、小さな唇がかすかに動く。
「個性……」
その、たった二文字を反芻するのに、やけに長い時間がかかった。これまでの人生で、そんな風に自分を受け入れてくれた人間は、ただの一人もいなかった。
「暗い」のは絶対的な欠点であり、「明るく、カーストの上位にいること」だけが正しいとされる檻のような学校。
そこで刷り込まれてきた十数年分の理不尽な常識が、今、目の前の少年が放った言葉によって、パンくずのようにあっけなく風に吹かれて揺らいでいた。
幸は、鼻の奥がツンと熱くなるのを感じ、慌てて視線を空へと向けた。泣きそうな顔を隠すのが、ひどく下手な子だった。
「……お坊さんが葬式で笑ったら、それはそれで、ちょっと怖いかも。」
涙を誤魔化すように不器用な冗談を返そうとして、声の端が小さく震える。でも、彼女は確かに笑っていた。
誰かに強要された作り笑いではない、内側から滲み出た、不器用だけれど本物の微笑みだった。
秋風がフェンスを揺らして甲高い音を立て、遠くの校舎から予令の気配が漂ってくる。幸はいつの間にか、手首の内出血の痣を必死に覆い隠していた右手を、静かに下ろしていた。
「でも、やっぱり僕は、君が笑っている方がいいな。君は、笑顔が可愛いね。」
世界が一瞬で静止した。
幸の顔が、頬から額、そして耳の裏に至るまで、一気に沸騰したように真っ赤に染まった。
口が言葉にならないままにぱくぱくと開閉し、完全に思考が停止する。まるで水から揚げられたばかりの金魚のようだった。
「か、かかか……っ!」
「可愛い」という破壊的な一語が脳内で大暴れしているらしく、手元が狂って弁当箱の蓋をコンクリートに落としそうになりながら、大慌てで両手で自分の頬を押さえている。
激しく脈打つ心臓の音が、屋上の暴風を越えて自分自身にまで聞こえてくるかのようだった。
男子から、それもこれほど端正な異性から、面と向かって容姿を肯定された経験など、彼女の十七年の人生において皆無に等しかった。
数秒間、激しく混濁する頭を必死に落ち着かせ、ようやく呼吸を取り戻した幸は、消え入りそうな蚊の鳴くような声で呟いた。
「……からかわないでよ、もう」
口では拒絶の文句を言いながらも、幸の頬の猛烈な赤みが引く気配は微塵もなかった。
カースト上位の男子に向けられるような「バカ」でも「最低」でもなく、「からかわないで」という精一杯の抗議。それが、彼女の胸の内に灯った小さな感情のすべてを物語っていた。
キーンコーンカーンコーン――。
冷徹な予鈴が校舎全体に響き渡り、まるで魔法を解くように、静かな昼休みの終わりを告げた。
そして金曜日の昼、その均衡を破るようにして、南雲信也が動いた。
「……おい」
屋上への薄暗い階段。たかしが一段ずつ足をかけようとしたその瞬間、背後から地を這うような低い声が彼を呼び止めた。
踊り場には、信也とたかしの二人だけ。階下からは他のクラスの女子たちの無邪気な笑い声が遠く聞こえてくる。
秋の乾いた風が、踊り場の窓の隙間からヒューヒューと音を立てて吹き込んで、信也のトゲトゲした髪を荒々しく揺らした。
「お前さ、最近調子乗ってねえか? 桜井とベタベタしやがって。俺の命令もまともに聞かねえし」
信也の言葉には、冗談の余地など一切なかった。空手で鍛え上げられたその肉体が、たかしとの距離を詰めるように半歩前へと踏み出される。
「友達には親切にしろと言われた。」
たかしは全く意に介していない様子で、いつもの穏やかな瞳のまま、静かに振り返ってそう答えた。
その瞬間、信也の背筋に冷たいものが走った。目の前に立つ男を間近で見上げ、彼は気がついたのだ。
この男は、単に背が大きいというだけではない。制服の奥に隠されたその肉体は、やばいくらいの筋肉で満ちている。
何より先ほど、この長い階段を上って来るときも、たかしは全く足音をさせなかった。まるで風のように軽やかだったのだ。
こいつに暴力を振るうのは絶対にやばい。信也の肉体と本能が、激しい警鐘を鳴らし、彼を強く制止していた。
「友達……ね」
その一言が信也の耳に届いた時、彼の中で何かがカチリと噛み合った。
目の前の男は、恐怖や損得といった本能で動いていない。確固たる自身の「信念」で動いている。
しかも、中国の山奥という過酷な環境で十年間も過ごしてきたその身体は、あまりにも圧倒的だった。
自分が今ここで殴りかかれば、決して無事では済まない――信也の直感が、そう告げていた。
「……チッ」
信也はたまらず一歩引いた。知らずに固く握りかけ、震えていた右手を乱暴にポケットに突っ込み、たかしから視線を逸らす。
「好きにしろ。ただしな、あいつを庇ってるつもりならやめとけ。標的が変わるだけだ」
それだけを吐き捨てるように言い残すと、信也は背を向けて階段を降りていった。その声にはいつもの傲慢さが無理に絞り出されていたが、階段を叩く足音はわずかに速い。まるで、その場から逃げるようにして去っていった。
そうして訪れた翌週の月曜日。それは起きた。
たかしが教室に登校すると、彼の机の上に、ぽつんとガラスの花瓶が置かれていた。
中には花など一輪も無い。ただ、冷たい水だけがなみなみと注がれている。
それは、この教室において「お前はもう存在しない人間だ」という、絶対的な死の宣告を意味していた。
教室は不気味なほどに静まり返り、全員が関わりを恐れてスマホをいじるふりをしている。
信也は窓際で頬杖をついて、自らが仕掛けた罠の成果を愉しむように、にやりと笑った。
しかし、たかしはその花瓶をじっと見つめると、何一つ表情を崩さずに言った。
「花が無いね。後で取ってこよう。おしゃれなことをしてくれる人がいるんだ。ありがとう」
教室全体が、一瞬にして凍りついた。誰もがたかしの正気を疑った。
死の宣告であるはずの花のない花瓶を、微塵の皮肉もなく「おしゃれ」と言い切る人間を、このクラスの誰も見たことがなかったからだ。
「……はぁ?」
さすがの信也も、一瞬面食らった顔を見せ、すぐに不快そうに目を細めた。自らの悪意が、あまりにも完全に無力化されたことへの苛立ちが、その顔に滲み出ている。
「た、たかしくん……」
机の横で立ち尽くしていた幸が、震える声でたかしの袖を引いた。
泣きそうな顔を隠せない彼女だったが、今の教室を包む周囲の視線の方がよほど怖いらしい。小声で、必死に彼に訴えかける。
「でもこの花瓶素敵だもの」
たかしがそう言って本当に嬉しそうに微笑むと、張り詰めていた教室の空気がぷつりと切れた。
何人かの生徒が思わず耐えきれずに吹き出し、クスクスと小さな笑いが起こった。
「よ、余計なことしないで……お願い……。目、つけられるから……」
幸が悲痛な声を漏らしたが、しかし、もう遅かった。たかしの放った「ありがとう」の一言が教室中に染み渡り、何人かの生徒がこらえきれずにまた吹き出す。
窓際の須田涼も、その爪を見つめながら薄く笑っている。
「……おい、聞いたか今の」
信也の低く冷徹な声が響いた。
その瞬間、漏れていた笑いはすぐに収まった。信也が周囲を睨みを利かせると、波が引くように教室内が静まる。いつもの、恐怖による支配の光景だった。
だが、今朝は何かが決定的に違っていた。
いつもであれば、信也の機嫌を損ねまいと「誰が笑ったか」をすぐに売る者が現れるはずだった。
だが、今朝は誰もそんな動きをしない。
郷田たかしという、悪意の通じない圧倒的な存在が、この教室の中で幸を守る見えない盾になり始めていた。




