第8話 如何して……
「蓮くんは体調を崩していたんですか?」
「はい。先週に蓮くんのお母さんと会ったときに聞いたんですよね。そんなにしんどそうにはしていないけど、頭が痛いみたいで、学校に行けてないんだって。元気そうでしたか?」
「……そうでしたか。体調を崩しているようには見えなかったので、きっと治ったんだと思いますよ。」
「それなら良かったです。本当に此方こそ色々ありがとうございました。村山さんのおかげで凄く気持ちが楽になってます。」
安堵がはっきりとわかるような声でそう述べる。俺の中では、もう何が異物なのかすら分からないほど大きくなっていた。此処迄のことが脳裏に過ぎる。滲んだ血痕の全てを染めるような赤は、特別脳に残っていた。今日はいつにも増して眠れない。しばしばカフェインを摂りすぎて、眠気が全く来ないことがある。だが今日はコーヒーを飲みすぎた訳ではない。不安に苛まれて眠れない夜もある。だが今日は、特別不安がある訳でもない。重く心がのしかかってくる。軽い筈の布団はぴったりと体に張り付いて離れず、剥がそうとしてもそれを押し除けることはできなかった。
浅い眠りばかりで夜を越え、朝が来る。今日は久しぶりに休みだったから、普段ならもう出社している程の時間に起きた。心も体も休まっているようには到底思えないが、どうやら今日は俺の世界で休日という区分に当てられている。家には人がいない筈なのに、洗面所からポタポタと音が聞こえる。水栓の閉まりが悪く、一晩中水が出たままだった。無駄になった水道代のことを想像すると気分が悪い。しっかりと閉めたらまたベッドの方へ戻ってしまった。朝食を食べようにも、気怠さに打ち勝つことができない。無理に体を起こして、昨日のうちに買っておいた惣菜パンを手に取る。健康が損なわれる味がしたが、今更気にしてはいられなかった。
だらだらと眠気と戦いながらテレビやネットニュースを観ていると、気がつくと時計の針は5周ほどしていた。その場から急いで立ち上がり、何かに押し出されて家から出た。遠くから糸で引っ張られて自分の意志を出すことなく道をうろうろとしている。側から見ても、操られていることに気がつかないくらい自然な様で。そのままいつもと同じ電車に乗った。ここ数日と同じ目的地。もう道に迷うことはない。
よく晴れた日で、空には雲すら見当たらない程の快晴。4時を大きく回った頃。いつも通り、この長い一本道を進んでいく。今では左右の建物に親しみすら覚えるようになった。気怠さは残ったままで足取りは重たくなる一方だが、なんとか体を前へと運ぶ。幾分か歩くと、琴葉の家についた。思わず此処のインターフォンを押しそうになるがぎりぎりで踏み止まり、少し奥にある家を目掛けて進んだ。蒔田。ここの家に来るのは今日で2回目だ。壁の側面についたインターフォンを押す。触り心地は気味が悪いものだった。
「村山さんですか?」
蓮の声は心なしか前よりも元気に聞こえる。
「村山です。お時間ありましたら、お話できませんか?」
「……わかりました。すぐに向かうので待っていてください。」
家の中の方から、ドタドタと走る音が聞こえた。数分ほど外で立っていると、にこやかな笑顔と共に蓮が出てきた。健康な顔つきをしており、生命力に溢れている。
「お待たせしました。今日はどうしたんですか?」
「立ち話もなんですから、この前の公園まで行きましょう。着いたら伝えますから。」
移動する素振りを見せると、眉を顰めながらも早足で着いてきた。今日は俺が前を歩いていた。後ろからはアスファルトに触れる音がコツコツと続いている。
「あの……ほんとにどうしたんですか?」
「良い情報が手に入ったんですよ。」
声には少し怯えが混じっている。陽は落ちる様子もなく目の前でごうごうと光りを浴びせてきた。其の儘少しばかり歩くと以前蓮と話した公園に着く。
「えっと、村山さん。本当にどうしたんですか?」
語尾は少しばかり上がって、迷いのある声。
「昨日琴葉さんのお母さんと電話をして、蓮くんが先週頃から学校を欠席していたと聞いたんです。今日までのことを自分の中でずっと考えていました。あそこに居たのは一体誰なんだろうと。それで、私は思ったんです。琴葉さんの死に際に居たのは、君なんじゃないかって。」
できるだけはっきりと、それでいて淡々と、この少年に伝えた。蓮は目を大きく見開いて、そのままふぅっと大きく息を吐く。緑の落葉が舞うのが遠目に映る。長い間沈黙が流れた後に、ぼそっと言葉を捻り出す。
「……俺じゃないですよ……」
「私は、きっと君が居たんだと思っていますよ。真実を教えて下さい。」
「……俺だって……彼処に居たかった訳じゃないんだ……」
そう呟いた彼の目は水面が反射して真緑に煌めいていた。まつ毛の一本一本に迄雫がかかり、苦しみながらもその場に留まろうと耐え忍んでいる。
「では君は、琴葉さんが亡くなるのを目の前で見たんですね?」
「……見た。見たよ。目の前で死んでいく琴葉を。」
ふと此方を見上げた目の奥には光がなく、表面の緑を全て吸い込もうとするほど深い闇がぐるぐると渦巻いている。声には段々と力が無くなり、終始唇を噛んだままでいる。風の音に負けそうな声。今日の風が悪戯好きなら、聞こえなかったかもしれない。その弱々しい姿を見ると、ふとあのときの甘いコーヒーの味が蘇る。唾を飲んでもその甘味が奇妙なほど舌に残っていた。
「そうですか……その場に居たのに……君なら琴葉さんを救えたかもしれないじゃないですか!」
「俺だって、死んでほしくなかった!」
そう叫ぶ彼の顔には、もうかつての冷静さは残っていない。今までそんな顔。俺も、自分の脈が平生とは異なることに漸く気がついた。
「じゃあどうしてその場に……」
拳に爪がささる。膝の上で大人しくさせていた筈の拳は、不意に強く握られていた。ぐっと掌が痛む中、どうにもその拳を開くことができない。自ら意思を持って固く握られた拳は、少しずつ俺の手の中の方まで入ってくる。
「仕方ないだろ……怖くなったんだ。無理だったんだ……」
「怖いって、何が……」
「死ぬのが怖くなった。まだ、この世界に居たかった。死にゆく琴葉の姿を見て、怖気付いた。そこで死ねるほど俺は強くなかった。」
「……何を言っているんですか……」
震えた声。言葉の強弱だって上手くコントロールできていないし、ずっと力が入っていない。吐息と溜息になんもか混じって世界に出てきたようなか細さ。あれからはずっと俯いたままで、膝の上にポタポタと雫が滴るのしか見えなかった。鼻を啜り、唾を飲む音の方が寧ろはっきりと聞こえた。
「俺は、本当は彼処で死んでいないといけなかったんだ。本当はもうこの世界に居る人間じゃない。生きたいという気持ちはあったけど、心は死んでた。琴葉が死んでよりいっそう、心にぽっかりと穴が空いたんだ。取り繕うことはできても、塞ぐことはできない穴が。」
「……蓮くんは、死ぬ必要は全くない筈です。それなのに如何して……それに……琴葉さんを殺してしまったのはあなたではないのですか……?」




