第9話 幸せと死の狭間で
「俺は……琴葉と一緒に自殺するつもりだったんだ。」
「自殺……?琴葉さんは、自ら命を絶ったということですか?」
頭の中が真っ白になる。俺の行動全てが馬鹿らしくも思えてきた。空は明るく、美しい水色を輝かせている。
「俺は琴葉を殺していない。死のうとしたのも琴葉の意志だ……殺そうだなんて、夢にも思ったこともない。ただ怖くて、情けなくて、死ねなかっただけなんだ……」
「……あの日、何があったのか教えて頂けませんか?」
蓮はずっと遠くの方を眺めている。ただ心を無にして見つめているだけ。その目に光は宿っておらず、見つめる先にも何も無かった。何処を見ているのかと尋ねることができる雰囲気でもなく、その姿を見ていることしか出来ない。目の奥に渦巻く闇に吸い込まれそうになる。
「……あの日、二人で一緒に死のうって約束してたんだ。二人でちゃんと計画もした。琴葉と付き合って丁度3年経つ日に死のうって。」
唾を飲み込んで喉が動くところまで鮮明に見えた。ぐるぐると喉の辺りが鳴り、鼻からは大きな息が漏れている。少し長い瞬きをして、再び口を開く。
「それで俺は彼処に居た。俺も死のうと思っていたけど、琴葉が苦しそうにもがいているのを見て……死ねなかった。琴葉は死ぬ直前『蓮くん、ありがとうね』って言って笑ってたよ。それが俺には、一番苦しかった。大好きな人を目の前で亡くして、それでいて約束も守れなかった……怖くなって、その場から急いで逃げたよ。」
言葉に詰まっている。俺の口は開くのを拒んでいて、蓮に言葉を投げかけることは叶わなかった。風がそっと木々を揺らす。木の葉が舞って、ざわざわと音が鳴っている。砂と落葉の擦れる音が妙に耳障りで、いつもよりもはっきりと聞こえてくる。気を取られていると、蓮の言葉が更に続いた。
「勉強だって生活だって、頑張ってきたのはずっと近くでみてきたのに、やっぱり病気になったのが琴葉にとって苦しすぎて……どれだけ頑張っても周りに追いつけなくて、泣いてる姿だって数えきれないくらい見てきた。琴葉にとって辛いことしかなかった。それでもう苦しいから、私死のうと思うんだって話をされたことがあって……」
「そんな理由が……」
膝の上にある俺の手には、ポタポタと雫が垂れている。瞼の辺りがやけに熱を帯びているのが手に取るようにわかった。声にならないような、か細い呟きしか出なかった。俺はずっと、勘違いをしていた。優しそうな顔を貼り付けて、奥には禍々しい素性を隠しているんだろうと。瞼ばかりでなく、頬の辺りまで赤くなっている気がする。頬に当たる風がやけに冷たく感じる。氷を頬に当てられるかのように、熱くなった皮膚が急速に冷やされる。
「俺は琴葉を守りたかったし、死んでほしくなかった。でも琴葉の幸せを考えたときに、死ぬ方がきっと良かったんだ……」
「……それはわかりました……でも君が死ぬ理由は無いじゃない筈です。蓮くんは、如何して彼処に……?」
「それは……俺も一緒に死のうと思っていただけで……部活してるんだけどさ、いくら努力しても他のメンバーの実力に届かなくて。女のこと構ってるからお前は弱いんだろとか色々言われたり、嫌がらせをされることも多くて……辛かった。」
顔は涙に溺れている。音にも表せないような息遣いを挟んで、更に続いた。
「死ねば楽になるかなとかも思って、彼処に居たよ。そんなことばかり言われて、大好きな筈なのに琴葉のことを嫌いになってしまいそうで……」
辺りはずっしりと澱んでいる。陽は少しずつ傾いて、空に茜色が差し始めている。茶色の木々を染めるかのように少しずつ空を侵食し始めた。蓮の顔は、涙と葛藤でぐちゃぐちゃになっている。もうこれ以上、苦しいものは見たくないと言わんばかりに目を擦っている。もがくようにも見えた。
「本当は一緒に死にたかったんだけど、琴葉が血を吐きながら辛そうにしてるのをみたら、俺、怖くなって……ごめん……ごめん琴葉、弱くてごめん……」
言葉には優しさが籠っている。触れたものを優しく包み込み、そのまま手放すまいとするかのように、囲われた優しさが流れ出す。のどかな清流のようなそのせせらぎが心地よくもあり、重苦しくもあった。俺の心は、かつてこれほどまでに傷んだことはあっただろうか。それも、自らを攻撃された訳でもないのに。ただ生きているだけで、こんなに苦しくなったことは、あっただろうか……
「蓮くんは、強いですよ。」
「……俺は、逃げたんだ。最後の最後で。琴葉との約束も守れない、弱い人間だよ……」
「人間誰しも、死ぬのは怖いものです。最後の瞬間まで琴葉さんの傍にいて、最後まで彼女の幸せを願っていたのなら、それはもう十分強くて優しい人です。逃げ出したことも、琴葉さんはきっと恨んでませんよ。寧ろ蓮くんに生きて欲しかったと思います。病気で体の自由が効かなかった自分の分まで……」
驚くほど言葉が滑らかに飛び出てきた。蓮は相変わらず不安で釈然としない顔をしている。空は段々と赤く染まり、遠くの方で烏の鳴き声が聞こえる。その姿を見ることはなかったが、いつもよりも多く鳴いていた。茜色に染まった空の遠く先で、ポツンと月が一つ浮かんでいる。ほとんど満月に近しいほど球体であり、夕陽は差していたが寧ろその姿ははっきりと現れていた。蓮はぽつぽつと言葉を放ち、それを溢すまいと懸命に拾った。
「……俺、もうどうしたらいいのかわからなくて……本当は誰にも言いたくなかったのに、ずっと隠して生きることもできなくて……本当に生きててもいいのかな……」
「君は、生きないといけない人間です。僕は、琴葉さんの遺書を読んだんです。其処には『受け止めてくれるよね』と書いていました。君の話を聞いたらこれは、『一緒に死のう』という風に見えるかもしれません。でも本当は、『私は死ぬけど、蓮は生きてね』と、伝えたかったんじゃないか……そう思えてきたんです。」
「……そんな、琴葉は一緒に死のうって……」
「うわべでは、そう言えたかもしれません。けれども琴葉さんも君と同じで優しい子の筈です。蓮くんが死ぬことなんて、望んでいないですよ。きっと。」
ぐちゃぐちゃだった顔は、更に何かが入り混じった顔になった。遠くの方を徒然に見つめている。何も知らない人間から見ると、ただ夕陽の差す街で黄昏ているようにしか見えない。思い立ったように、蓮に声をかけた。
「琴葉さんのお仏壇に、二人で行きませんか?一度琴葉さんの顔を見たら、何かわかると思いますよ。」
「……わかりました……」
それだけ言って、のっそりと立ち上がる。蓮は随分と腰が重たい様子だった。あたりはほんのりと暗闇がかかり、ポツポツと街灯が星になり始めている。ゆっくりと歩く背を追いつつ、歩幅を合わせて後ろをついていった。顔の辺りはまだじんわりと熱気を帯びて、夜風の涼しさが心地よい。だがこの風は、歪んだ空気を跳ね飛ばすには余りにも力不足だった。暫く歩くと、もはや見慣れた家に辿り着く。街灯に照らされて佇むその家は、やはりその白と黒を閑静な街へと馴染ませていた。蓮は慣れた手つきでインターフォンを鳴らした。
「あら蓮くんこんにちは。何か用?」
「おばさん久しぶり。今村山さんと一緒に居るんだけど、琴葉の遺影に礼を言いたくて……」
蓮がそれだけ伝えると、他に言葉もなく玄関が開いた。相変わらず生気を失った母親が出迎える。相好は少しも崩れていなかった。中に入ると、カーンと冴える緑の脇に白い仏壇が置かれていた。そこには口元が僅かに緩み、幸せそうな顔をした一人の少女がいた。
「……琴葉……」
蓮はそう言って、琴葉の遺影の方にそっと寄り添う。そのままじっと遺影を見つめた後に何かポツポツと呟いた。あまりに小さな声で、何を言ったのかは全くわからない。何だろうと考えているうちに、蓮が振り返って口を開く。
「村山さん、本当にありがとう。俺、今やらなくちゃいけないことがわかった気がする。」
そう伝える蓮の泣き顔には、口元がそっと緩んだ僅かな微笑みが残されていた。




