第5話 過去
固く結ばれた唇を解いて、琴葉の母親はゆっくりと口を開いた。
「ことちゃんのことなんですけど……」
重い空気が此方まで伝わる。そこから逃げ出すように、雨は段々と止み始めている。苦しそうな声でもがきながら、なんとか声を伝える。
「あの子は……中学生のときに心臓の病気で一年ほど入院していたんです。」
何か言おうとしたが、何も言えなかった。雨は更に弱くなり、もう雨の音は部屋の中まで聞こえない。
「それでなんとか退院は出来たんですけど……日常に戻ってからも強い運動制限であったり、リハビリであったり、痛みを伴う治療であったり……できることなら、代わってあげたかった……」
声は凄く潤んでいた。これ以上はもう話せないと言わんばかりに、声にならないくらいの嗚咽が混じって、泣いている。
「そんな……」
部屋の中では、ただ母親の嗚咽が繰り返されている。
「退院してからも、本当に苦しそうにしてたんです……薬だって毎日飲んでたし、一人で泣いてることもいっぱいありました……」
「……本当に辛い過去をお持ちだったのですね。」
最大限に優しく寄り添うような声を、腹の底から絞り出す。言葉の微風に応えるように、家具も一層明るく振る舞うようになった。雨雲の隙間を縫うように一筋の光が差して、室内を照らしている。
「泣いてばかりじゃ駄目ですよね……私がしっかりしないといけないのにお見苦しい姿ばかりで申し訳ないです……」
「とんでもないです。娘さんを亡くされるのは本当に辛いことですから……」
かけるべき言葉は何処にも見当たらない。頬には、涙が一筋だけ伝っていく。
「本当にごめんなさいね……蓮くんのことも聞きにきてくれたんですよね。蓮くんは、ことちゃんの幼馴染なんです。」
「幼馴染……琴葉さんの中で、特別な存在だったのですね。」
「私はあまり知らなかったんですけど、ことちゃんが入院しているときからずっとお見舞いにきてくれてたみたいで。」
蓮……その名前を何度も何度も脳内で反芻した。雨は完全に止んだが、先ほどまで部屋を照らしていた光は雲に遮られる。
「ことちゃん、やっぱり辛くて一日中泣いてたりした日もあったんですけど……それでも偶に笑顔を見せるときもあって。退院してから聞いたら、蓮くんがお見舞いに来てくれた日は元気が出たんだって……」
「それで、遺書の中であのように……」
「はい……蓮くんは、琴葉が自ら命を絶とうとしていること、知っていたのでしょうか。」
母親の声には、もうずっと元気がない。部屋の隅にそっと挿してある一輪の白菊は、ずっと淋しそうにしている。
「蓮くんは今、何処に居るんですか?」
「蓮くんなら、二つ隣のお家です。『蒔田』という表札があると思います。」
「ありがとうございます。また機会が有れば、蓮くんのお宅にも伺っておきますね。」
二人とも口を閉じる。この沈黙を破る術は、どうやらお互い持ち合わせていない。向かいの椅子で、まだ会ったことがない筈の琴葉の影がぼんやりと見えた気がした。雲は漸く退き、大きく虹がかかっているのが見える。
「何度も押しかけてしまって申し訳ないです。本日は本当にありがとうございました。琴葉さんのことは辛いでしょうけど、いつでも相談に乗りますから……」
そう言い残して逃げるように去った。母親の顔は見ることができない。歪んでいたのか、笑っていたのか……そのまま玄関を出て、もはや見慣れた帰り道を進んでいく。ふと右を見ると、白と黒のコントラストの裏に、美しく大きな七色が聳え立っていた。
雨に濡れた地面をゆっくりと進む。ぴしゃ、ぴしゃ。一歩を踏み締める度に水が付き纏う。駅の方へと帰っていく足取りは、段々と重くなっていった。何度も「至って普通の生徒です」という言葉が繰り返された。このまま帰るな。そう言われた気がして来た道を引き返す。さっきよりもぐっと重い空気に息を呑んだ。どんよりとした照り返しに汗が出る。琴葉の家の方面へ向かい、途中で脇道に逸れた。
そのまま道なりに進むと、静川警察署まで辿り着く。まだ虹の姿は健在で、その絵筆でキャンバスを色付けている。警察署は堂々としており、無骨なコンクリートの塊がドンと構えている。地面と同化するような色。住宅の中に潜むようなその警察署は、近づくとそれらしい威圧感を放っていた。受付の人と軽く会話を交わして、琴葉の家に捜査に来ていた強面の警官を呼んでもらった。そのまま相談室まで移動して待っていると、奥の方からガタンと物音がして、背の高い警官がぬっと現れる。あのとき琴葉の家にいた、強面の警官。
「あぁ、村山さんですか。どうかしましたか。」
想像よりも柔和な声をしていた。正義感に溢れるような、充足した顔で此方を見ている。太くてがっちりとした腕や、見上げるほどの身長に思わず肩がすくんだ。
「あの、琴葉さんのことで一つ聞きたいことがあって。」
「あの子がどうかしたんですか?」
「可笑しな話ではあるんですけど、もしかしたらあの子の死に誰かが関係してたんじゃないかなって……」
勇気を振り絞り、その強面の警官に伝える。震えるようなか細い声をなんとか拾い上げたようで、眉間に皺が寄っている。
「何を言っているんですか?あの子の死因は明らかに自ら毒を飲んだことですよ。」
「それはそうなんですけど、誰かいたんじゃないかって……よく見ると、琴葉さんの吐いた血が誰かに拭われたようにも見えて。」
目を逸らさず、懸命に語りかける。晴れているはずなのに、耳の中では稲妻が走る音が聞こえる。机の上に両腕を乗せて、此方に寄ってきた。
「あれは、琴葉さん本人が拭いたものですよ。」
「え?」
「あの後一時的に此方で遺体を預かっていまして、指に血痕のようなものが付着していました。我々は、吹き出た血を咄嗟に抑えたんじゃないかと推測しています。」
納得の説明に、反論が出てこない。警官の鋭い目つきには、一切の濁りがなかった。目の前で誤魔化している様子は全くなく、穏やかな声で淡々と真実を紡がれる。
「それに申し訳ないですが、貴方一人がそういってもこれほど自殺の証拠があれば、もう結果は揺るがないです。我々にも他の仕事が有りますから。」
「……そうですよね。身勝手なのは分かってます。でも、どうしても、そう思ってしまうんです。だから、協力して欲しいとは言わないので、せめてそれを心に留めておいて欲しいんです。」
自信のない声で、必死に伝える。自分がちっぽけで、頼りのない存在であることを改めて突きつけられる。「わかりました」と一言だけ残して、相談室から出て行った。これだけ否定されても、まだ心の中の異物は消えない。そのまま礼を告げて警察署を去る。帰り道は強面の警官との会話で頭がいっぱいだった。優しく諭される訳でも、厳しい反論をされる訳でもない。彼を責める余地すらなかった。
帰り道では、虹を横目に見ながら歩いていた。通りすがる子どもは、「お母さん、虹だよ!」と、指をさして燥いでいる。大きく昇った太陽は、ひたすら地面を照らしている。人気のない道にも無駄に影を作りながら。子どもが燥ぐ姿を横目に見ながら、ゆっくりとオフィスに戻る。虹は消えかかっており、白い雲がぽつぽつと姿を見せ始めていた。




