第4話 受け止めてくれるよね
取り敢えず、オフィスに戻った。電車に揺られて帰ってきた筈なのに、未だ目の周りの赤らみは消えない。なんとか誤魔化そうと、顔をよく洗ってからデスクにつく。誰かに何を言われることもなく黙ってパソコンと向き合い始めた。今日のことをもう一度振り返る。校長の姿と、亡くなった我が子を想う母親の姿。俺の目は、スタンドランプが作り出す影へと向けられる。
そのランプは、パソコンを照らして机の上に影を造り出す。気がつくとその影をなぞっていた。頭はそこから動こうとしない。目玉だけが、誰にもバレないようにその影をひっそりと追う。右に左に、前に後ろにと何度もそれを繰り返した末に、飽き飽きとしたのか、最後は漸く光の方へと目をやった。見ると、薄い鼠色の机の上にプリントが山積みになっている。同僚から大丈夫かと声をかけられて漸く正気になった。
それでも、頭も手もまだ動かない。パソコンと睨めっこをしたままで、世界だけが通り過ぎていく。定時になるまで、何もできなかった。書こうとして、文字を作ってはまた消して。「至って普通の生徒です。」というその言葉だけが、ずっしりと俺の上に覆い被さる。どうにもベチャッとくっついたままで離れない。無理やり剥がそうとしたとき他の全ても一緒に無くなる気がしたので、それはやめておいた。時間は俺を置き去りにして、周りにいる人間を急かすように流れていく。
明日に仕事を積み残して早めの帰路につく。家へと向かう道は、遠くの方までグーンと伸びている。暗い部屋に灯りをつけて机の上に遺書を真っ直ぐ置いて、じっと見つめた。琴葉の家とはまた違う、少し安っぽい木の机に、その白い紙が鎮座している。場所を開けてと言わんばかりに他のものを全て退けて、新しくやってきた紙がこの場を支配する。開こうとして手を伸ばしても、その手は何度か俺の方に帰ってきた。さっきよりも、はっきりとその字面が見える。「拝啓 みんなへ」と。ボールペンで丁寧に書かれた文字は少し丸みを帯びており、女の子らしい字だった。大きく深呼吸をし、その勢いのまま丁寧に紙を開く。
「拝啓みんなへ。
まずは、勝手に死んでしまってごめんなさい。でもどうしても生きてるのが辛くて、死んだ方がきっと苦しくないなって思っちゃったんだ。
ママ、パパ。私のこと産んで、18年間育ててくれてありがとう。あんまり強い子じゃなかったし、迷惑もいっぱい掛けちゃったけど、その度に励ましてくれて凄く頼もしかった。親孝行が全然できなかったことだけ、唯一の心残りです。二人の子どもで、本当に幸せだったよ。
学校のみんな。私といっぱい遊んでくれて、友達になってくれてありがとう。毎日みんなと会えるのがとても楽しみだったし、みんなと会えるって思ったら、辛くても学校に行けました。みんなといたから、文化祭とか、高校生らしく楽しめたし、今でもすごくいい思い出です。本当にありがとう。
そして、蓮くん。今まで本当にありがとう。ずっとずっと、大好きだよ。あのとき蓮くんが居なかったら、私もうずっと前に死んでたと思う。ずっと人生に光がなかったけど、蓮くんがようやく私の道を照らしてくれた。蓮くんと出会えたことが、人生で一番の幸せだよ。死ぬのは怖いけど、蓮くんならきっと受け止めてくれるよね。蓮くんには、感謝してもしきれない。本当にありがとう。愛してる。」
痛いほど綺麗な遺書……文字を追う目は、段々と遅くなっていく。大きく息を吸わないと、窒息してしまいそうだった。鼻を啜る音は、外を通る車に遮られる。ふと見ると所々が黒くなって、遺書の上にはできたばかりの染みが幾らかあった。思わず目をキュッと閉じる。校長の言葉が再び脳裏を過った。俺が連れ込まれた迷路にはいっそう強く霞がかかり、手探りで道を探すしかない。だが俺にはもう、俯いてひっそりと頬を拭う以外出来ることはなかった。
どんよりとした天気に迎えられる。テレビをつけると、今日は午前中は曇りで午後から雨なので折り畳み傘を持っていきましょうと、声の良いアナウンサーがそれらしく語っていた。外では既に雨が降り始めている。オフィスに向かっても、全く変わらない光景が広がっている。〆切を確認しながら焦ってキーボードを叩いている傍で、呑気に珈琲を淹れて雑談をしている人もいる。静と動が交差する中で、俺は動の方へと足を運ぶ。昨日と同じ位置に、何も言葉を発さずに座った。
社内の人間から、俺の方に顔を向けられる様子はない。当たり前の事として流れていくし、それを止めようとしなかった。キーボードを叩こうとしても、指はその指令に反応しない。頭の中は真っ白になって、壊れたラジコンのように全く反応を起こさなくなった。ランプは相変わらず机上の太陽として機能するが、俺の指を温めようとする素振りは一切ない。動かなくなった指を見て、そのまま立ち上がった。
「もう少し取材したいので、ちょっと出掛けてきます。」
上司に一言だけ伝えて、駆け足でその場を去る。いつもと変わらない筈なのに、傘を差している時だけは道が狭くなる。通り過ぎる傘とぶつかりながら、人混みを抜けていく。空はまだ黒い雲で覆われており、時計は10時の半ばを指している。息を切らしながら、急いで改札へと着く。電車は駅を通り過ぎたばかりだった。次の電車を待っている間、その場で立ち止まることはできなかった。ぐるぐると周りながら、見える筈もない未来を見ようと必死に脳を働かせる。そうしていると、すぐに次の電車が迎えにきた。蒸し暑さに耐えながら、電車に揺られて琴葉の家に向かう。最寄り駅についても、空はまだメソメソと泣いている。傘が雨を弾き、靴が水溜りを踏む音だけが、静かな街中に響き渡っていた。
人通りは殆ど無く、ただ一直線に走る。ズボンの裾は水滴が垂れるほどぐっしょり濡れて、靴の中まで不快感がある。漸く到着した頃には、雨はずっと強く俺に降り注いでいた。ザー…と世界に白い霧がかかっている。気にも留めず、インターフォンを鳴らす。流れる雨を真横から突き刺す音。「すいません、村山です」と。今だけは、親しい近隣の人として振る舞える。玄関の戸がゆっくりと開いた。俺が来ることを予感していたのか、少し化粧をしている。相変わらず、生気を失った母親が顔を覗かせた。
「お話なら、雨なので中に寄っていきませんか?」
そう案内され、綺麗に片付いたリビングへと移動する。琴葉が座っていた椅子は出しっぱなしで、木目に馴染むように血が少し染み込んでいる。赤黒い染みを見つめていると、二日前のことがまざまざと脳裏に浮かんでくる。琴葉の母親と隣り合うように座った。
「遺書、お返ししときますね。しっかり読ませて頂きました。」
「それなら幸いです……」
鞄の中から昨日の間に予め雨に降られた遺書を渡しておいた。一度会った筈なのに、白い鉢に入った観葉植物は見慣れない人間にひどく驚いている。街に負けないくらい、静かな家の中。遠くから、微かに雨の音が聞こえてくる。青く瑞々しい葉に気を取られていると、母親が沈黙を破る。
「あの、遺書を読まれて、何か思うところはなかったですか……?」
恐る恐る、一つ一つの言葉を誠実に選んだような様子で母親は語りかけてくる。俺も、心のうちから出る言葉を丁寧に紡いだ。
「……娘さんのこと、そして、蓮という少年のこと。聞いても宜しいですか……?」




