第2話 幸せな他殺……?
「はい……あの、変な話なんですけど、ことちゃんが亡くなっているとき、微かに微笑んでいた気がして……本当に、幸せそうに笑っていたんです。凄く満ち足りたような顔で……」
流れを遮るようにミルクティーが到着する。冷たいミルクティーが入ったカップの表面には水滴が付着していた。カップの中では淡く燻んだ茶色にほんのりと白が混ざっており、ほんのりと甘い匂いが鼻を掠める。
「ご注文は以上で宜しかったでしょうか?」
「はい。取り敢えずはこれで大丈夫です。」
「かしこまりました。」
他の席から大きな笑い声が聞こえたり、満面の笑みを浮かべた人がいたりと、全員が呑気にしている。しかし此処の席だけは異様に空気が重く、店員は逃げるように厨房まで帰っていった。
「申し訳ないです。琴葉さんのこと、もう少し教えて頂いても宜しいですか?」
「はい……その、毒を飲んできっと苦しかった筈なのに、あの子は本当に幸せそうで……あからさまに笑う子じゃないんですよ…。嬉しいときは僅かに口元が緩むだけというか、そんな癖があるんですけど、亡くなったときは丁度そんな顔をしていて……」
「確かにそれは少し違和感を持つかもしれないですね……」
コーヒーを一口飲み、カップを置く。カタンッ……とぶつかる音がなった。それに合わせて母親も一口ミルクティーを飲んだが、僅かな量しか減っていない。
「はい……警察の方にも伝えてみたんですけど、きっとご心労なのでしょうと取り合って貰えなくて……」
「それは苦しいですね……本当にそんな傷心の中で辛いことを聞いてしまって申し訳ないです。」
母親はその言葉を聞いて、唸るような動作をしてからゆっくりと言葉を紡ぐ。
「凄く丁寧な対応をして頂いて、私も少し楽になりました。此方こそありがとうございます……あの、お時間が有りましたら、家まで来ますか……多分まだ警察の方がいらっしゃると思いますし、何か聞けるかもしれません……」
思わぬ提案に、飲み込もうとした唾で咽せてしまった。
「良いんですか?お話させて貰うだけでも凄く有難いのに……」
「村山さんならきっと、ことちゃんも喜んでくれるかなって思ったんです。凄くお優しい方なのが滲み出ていますから……」
「では、お言葉に甘えさせて頂きます……本当にありがとうございます。」
少し声が大きくなり、近くの人の視線が集まる。鏡が無くても、頬が赤くなっているのがよくわかる。ずっと顔が生きていなかった母親の口角が少しだけ上がって、微かに微笑んでいる気がした。
それからは特に話すこともなく、お互いが淡々と目の前のカップと向き合い、少しずつ飲み干していく。ミルクティーはコーヒーが無くなる倍程の時間がかかった後、漸く無くなった。手早く会計を済ませて喫茶店から出る。母親についていって、促されるままに琴葉の家へと向かった。ビルの合間から強く風が吹く。少し暑くなってきた頃に日陰でぶつかる風が心地良い。遠くの方では、白の絵の具に黒を無理やり混ぜたような色の雲がうかんでいる。
足取りが重いが、体は無意識のうちに少しずつ前へ前へと進む。母親が、物音一つ立てずに俺の一歩前をゆっくりと歩いている。額の汗を拭おうと手に取ったハンカチは、少し震えていた。目線を戻し、猫背気味の背中をじっと見つめる。肋の辺りまで伸びた茶味がかった黒い髪は風に強く靡いていた。コツ、コツ、とヒールの音が一定のリズムで刻まれている。物悲し気な背中を見ていることが出来ず、時々視線を振っていた。ゆっくりと歩く母親についていくと綺麗で立派な家に着いた。
静かで綺麗な、2階建ての一軒家。「木岡」と古風な表札が掛けられている。白と黒で造られた壁は、閑静な住宅によく似合う。玄関は開けられてブルーシートで覆われており、関係者以外立ち入り禁止とロープが張っている。外面とは裏腹に靴が散らかっているのが見えた。そのまま玄関から中へと入ると、強面の警官と目が合う。
「木岡さん、お帰りなさい。この方はご親族ですか?」
「いえ、先ほど迄お話を聞いてくれていた記者の村山さんです。」
虫の羽音のように小さな挨拶をした。本当に人が死んだのかと思うほどには綺麗な家で、裕福な暮らしぶりが見て取れる。玄関に置いてある芳香剤の匂いは、意外にも実家の物と同じだった。玄関を抜けると、木の温もりを感じる部屋が待っている。端の方では、白い鉢に観葉植物が添えてある。白を基調とした部屋では想像以上に目立つ、吸い込まれるような深い緑。リビングでは、美しい木目のある大きな机があった。恐らく自殺に使ったであろうコップは残されていて、縁には薄っすらと紅色が付着している。現場はおそらく警察の手を加えられた様子はなく、琴葉が亡くなったときのままだろう。
そっと机の方に目を向ける。机上には少し血を吐いた痕跡が残っていた。絵筆を無理やり机につけたような。だがそれは所々が妙な途切れ方をしていて、焦って拭ったみたいに滲んだところがある。誰かに吹きかけたのか、何かにぶつかったのか、他とは違い、丁寧に塗ったような途切れ方をしているところもある。リビングを覆っている白い壁まで染め上げるような強くて濃い赤。まだ木目まで染み込んだ訳では無く、少し盛り上がっている。琴葉が座っていた筈の椅子。その横の椅子も、乱暴に引かれていた。まだ暴れ足りないという様子で、椅子の座面は此方に向いている。
気のせいだと言ってしまえば片付くくらいの小さな違和感。先ほどの母親の言葉をもう一度頭の中で唱えてみる。幸せそうな死に顔……
体の中に、覚えのない異物があるのがわかった。コロコロと体の中を転がって、内側からその存在を知らしめてくる。一人で未来を断ち切ることは、想像を絶する程の勇気がいる。今、オフィスの窓から飛び降りることを想像したが、すぐに心臓が締め付けられた。毒で死ぬことはきっと想像を絶するほど辛い。幸福な他殺なんてあり得ない。もう一度机の方を見直すと、局所的に赤く染まりかけている大きな机があるばかり。この子の死は、何か普通とは異なるのではないだろうか。もしかすると、其処に誰か…。胸の中で二つの想いが火花を散らす。葛藤の末に、俺はあの母親を傷付ける選択は出来なかった。きっとこれを伝えたら、心が折れて治らなくなってしまう。
警官には軽く礼をして、母親にはきちんと深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。今はお辛いでしょうから、しっかりと心を休めてください……」
「ありがとうございます……」
そう挨拶して、その場を後にする。帰り際には父親らしき人とすれ違い、会釈をしておいた。鬼に追われる形相でスタスタと歩いており、俺の会釈は気にも留めなかった。俺とは目を合わせようとする素振りすらない。太陽は西の方へと倒れ込んでおり、地平線の下まで帰る準備をしている。濁ったような雲が段々と近づいている。俺は太陽に背を向けて、帰り道がわからないほどの長い道を、ゆっくりと歩き始めた。




