ふやかしたパン
台所に立ったクロードは、竈の前でしばし手を止めた。
「……火、どうするか」
「妾の火を使うか?」
「お前に任せたら、台所ごと吹き飛ぶ」
「なっ……」
心外だ、と口を尖らせるマオを尻目に、クロードはかろうじて残っていた薪を竈にくべ、火打石で火を熾した。火打石を扱う手つきは、思いのほか慣れているように見えた。
鍋に水を張り、黒焦げのパンの焦げていない部分を手で割り入れていく。かすかに煤の匂いが残っていたが、気にしている余裕はなかった。他に食材と呼べるものなど、この家には何一つなかったからだ。
鍋を火にかけ、しばらく待つ。パンが水を吸い、ふやけて柔らかくなっていく様子を、クロードはただじっと見つめていた。
マオは鍋を覗き込むように、クロードの隣に歩み寄った。
「ほう、パンが溶けておる」
「溶けてるんじゃない。ふやかしてる」
「同じことじゃろう」
「違う」
短いやり取りの後、クロードは木の匙で鍋の中身をゆっくりとかき混ぜた。塩の一つも見当たらなかったため、まともな味付けはできていない。それでも、硬いパンをそのまま齧るよりは、いくらかましなはずだった。
「できた」
そっけなく呟き、クロードは欠けた器に中身をよそい、寝台のそばに置かれた小さなテーブルまで運んだ。マオも当然のようにその向かいに腰を下ろす。
匙を手に取り、まずクロードが一口すすった。味はほとんどない。パンがふやけただけの、ただの粥のようなものだ。それでも、匙を進めるクロードの表情は、心なしか和らいで見えた。
マオもまた、恐る恐る匙を口に運ぶ。
「……」
しばらく無言で噛みしめた後、マオはぽつりと呟いた。
「……なんじゃ、これは」
「文句があるなら食うな」
「文句ではない」
マオは、もう一口すくった。
「……不味くはない。ただ、何の味もせぬ」
「塩がないんだ」
「なぜないのじゃ」
「買う金がない」
あっさりとした答えに、マオは何と返せばいいのか分からなくなった。城で暮らしていた頃、食事に塩気があるかどうかなど、気にしたことすらなかったのだ。それが、これほどまでに当たり前ではないものだったとは。
「……お主、それでよく生きておるな」
「生きてる、というほどでもない」
自嘲めいた声だった。だが、それを咎める気には、なぜかなれなかった。マオは黙って匙を動かし続けた。
食事の間、二人はそれ以上多くを語らなかった。ただ、匙が欠けた器を擦る音と、時折鍋から立ち昇る白い湯気だけが、狭い部屋を満たしていた。
食べ終えた後、マオは空になった器を見下ろし、少し考えるような顔をした。
「……次は、もう少しまともな味にしろ」
「材料がないと言っただろ」
「なら、材料を用意すればよかろう」
こともなげにそう言い放つと、マオは席を立った。窓の外——村の方角に目を向ける。
「妾が、何とかしてやろう」
クロードはその背中を怪訝そうに見つめた。
「……何を企んでる」
「企んでなどおらぬ。単に、こんな味のない飯をこれ以上食わされるのはご免だというだけじゃ」
そう言い捨てながらも、マオの内心にあったのは単なる食事への不満だけではなかった。
魔王討伐の英雄が、塩ひとつ買う金にも困り、廃屋で朽ちるように暮らしている。その理由を、本人はまともに語ろうとしない。ならば、村の者たちから聞き出すまでだ。
「妾は少し出かけてくる」
「……どこへ」
「決まっておろう、情報収集じゃ」
短くそう言い残すと、マオは扉に手をかけた。触れた指先にわずかに魔力を通す。悪魔の角と黒い翼が、淡い光とともに人間の姿へと変わっていく。クロードを探す道中で幾度となく使った、慣れた偽装だった。
振り返りもせず、マオはそのまま外へと出ていった。
◇
一人残されたクロードは、しばらくの間、空になった器を見つめていた。
何もかも投げ出したはずのこの暮らしの中、ただ味のない粥をすすっただけのことが、腹の温もりとともに、なぜかいつまでも胸の奥に残っていた。




