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萌芽と予兆

 それから、穏やかな日々が続いた。


 クロードは、以前ほど家に閉じこもらなくなった。畑仕事を手伝い、力仕事に駆り出され——村人たちに頼まれれば、渋々といった顔をしながらも断らずに応じる。


「勇者様、こっちの薪運び、手伝ってくれないかい」


「……ああ」


 そんなやり取りが、日常の一部になっていた。まだ以前のような快活さが完全に戻ったわけではない。だが少なくとも、誰かと関わることを避けなくなっていた。


 一方、マオの料理の腕も着実に上がっていた。


「見よ、今日は焦がしもせず、生煮えでもないぞ」


 得意げに差し出されたスープの皿を受け取り、クロードは一口すすった。


「……悪くない」


「悪くない、ではなく、美味いと言わぬか」


「美味い」


 素直な返事に、マオは満足げに鼻を鳴らした。崩壊した見た目の料理は、もう出てこない。二人の間に流れる時間は、間違いなく柔らかいものへと変わりつつあった。


 そんなある日、井戸端で顔なじみの女たちと話していると、話題は自然と最近の村の様子に及んだ。


「そういえば、最近、村の周りに魔物が増えてきたと思わない?」


 一人がそう言うと、別の女が大きく頷いた。


「うちの人も言ってたわ。畑の近くまで、魔物の気配がすることがあるって」


 マオは内心、わずかに眉をひそめた。魔物の増加——それが意味するものに、まるで心当たりがないわけではなかった。


(妾の力では、まともに戦って退けられるとは正直思えぬ)


 あの旅の間も、幾度となく挑んでは手酷くあしらわれてきた。戦って村を守れるほどの力量が自分にあるとは、到底思えない。何かあってからでは遅い。念のためにも、別の手を打っておく必要がある——マオはそう意を強くした。


「大丈夫よ、勇者様がいらっしゃるもの」


 女の一人が、明るく言った。


「あの方の力が戻り、この村にいてくださる限り、何も心配ないわ」


 その言葉に、他の女たちも口々に同意する。誰の顔にも不安の色はなく、ただ絶対的な信頼だけがあった。マオは曖昧に相槌を打ちながら、村人たちの無邪気な信頼とは裏腹に、胸の中の警戒感を強めていた。


 何かが、確実にこの村に近づいてきている。だが、それが何なのかは、まだはっきりとは分からなかった。


 ――その日の午後、頼まれていた用事のためにフィリアの家を訪れると、庭先でクロードとフィリアが並んで立ち話をしているところだった。


「……お前、最近は随分と顔色がいいな」


「……まあ、色々あってな」


 フィリアの言葉に、クロードは以前より幾分柔らかい表情で答えている。


「もう、私から逃げないんだな」


「……ああ。いつまでも避けてる場合じゃないと、思い直しただけだ」


 短くそう返すクロードに、フィリアはどこかほっとしたように、小さく目元を緩めた。


 二人の間には、以前のような刺々しい気まずさは、もうあまり感じられない。


 その光景を離れた場所から眺めていたマオは、胸の奥がちくりと疼くのを感じた。


(……なんじゃ、この感じは)


 理由の分からない、もやもやとした不快感。フィリアとクロードが親しげに話しているだけのことに、なぜこれほど気持ちがざわつくのか、自分でも説明がつかなかった。


 二人の元へと足早に歩み寄る。


「……おい、そんなところで何をしておる」


 つい、必要以上に刺々しい声が出た。二人が驚いたようにこちらを向く。


「なんだ、来ていたのか」


「妾《わらわ》がいつ来ようと勝手であろう」


 明らかに不機嫌な様子のマオに、クロードは怪訝そうな顔をしたが、フィリアは何かを察したように小さく薄く笑った。


「……クロード、悪いが少し外してくれないか。マオと、二人で話したい」


「……分かった」


 クロードが気を遣って立ち去ると、フィリアはマオに向き直った。


「そう睨むな。別に、お前から何かを奪うつもりはない」


「な、何を言っておる。妾は、別に……!」


「隠さなくていい」


 フィリアは静かにそう言うと、近くの丸太に腰を下ろした。


「安心しろ。私には、今でもカイルがいるからな」


 胸元に下げた小さなペンダントに、愛おしげに指先を走らせる。


「……クロードみたいな根暗な男は、好みじゃない」


 からかうような口調だったが、その後に続いた言葉は、意外なほど真剣だった。


「……もっとも、私とクロードは、似ているのかもしれないとは思う」


「なんじゃと?」


「カイルは、魔王軍に従属させられ、人間たちからは『裏切り者』と蔑まれていた私を救い出してくれた。良い意味で細かいことを気にしない、バカみたいに明るい男だった。……その明るさに、私は救われたんだ」


 フィリアの目が、遠くを見るように細められる。


「私以外の女性にも優しすぎるところは、玉に瑕だったがな」


 小さく笑うと、その表情に一瞬だけ深い寂しさがよぎった。


「クロードのことも……私たちは、傷に触れないことが優しさだと思っていた。あいつの絶望や過去には、そっとしておくのが一番だと」


「……」


「でも、それは間違いだったんだな」


 フィリアは静かにマオを見つめた。


「お前みたいな奴の方が、クロードには救いだったのかもしれない。無遠慮に踏み込んで、引きずり出して、それでも当たり前のように隣にいる。私たちには、できなかったことだ」


 その言葉に、マオは何も言い返せなかった。喉の奥が熱くなり、視線をさまよわせる。


「だから」


 フィリアは、まっすぐにマオの目を見つめた。


「お前は、これからもクロードのそばにいてやってくれ」


 その真剣な眼差しに、マオは耐えかねてそっぽを向いた。胸の奥のあの疼きが、先ほどよりもずっと強く、熱く広がっていく。


「……言われずとも、そのつもりじゃ」


 短く素気なく答えると、マオは逃げるようにその場を後にした。


 雲一つない穏やかな青空の下、増えつつある魔物の影と、胸の中に芽生えた割り切れない感情だけが、重く残っていた。

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