湯けむりの向こう
丘から戻った夜、いつものようにマオは当然のような顔をして寝台に潜り込んできた。
だが、潜り込んで早々、何かに気づいたように眉をひそめる。
「……お主、汗臭いぞ」
「……悪かったな」
クロードは力なく答えた。反論する気力もない。慣れない急坂を必死の思いで登り切ったのだ。汗くらいはかく。
「これはひどい。着替えたところで、この匂いは落ちぬのではないか」
「嫌なら、一緒に寝なければいいだろ」
「仮にも家主を床で寝かせるほど、図々しくはないつもりじゃが」
そう言いながら、マオは当たり前のように寝台の隅で丸くなった。自分が寝台を使う前提の時点で理屈は破綻している。だが、それを指摘する気力すら残っていなかった。
翌朝になっても事情は変わらなかった。着替えを済ませても、肌の奥に染み付いたような匂いが拭いきれない。マオがこれ見よがしに小さめの鼻をつまんでみせる。
「……そういえば」
マオは何かを思い出したように顔を上げた。
「前にティオに連れられて行った先に、湯の湧く場所があったのう。一度あの湯とやらを試してみたかったのじゃ。ちょうどよい、そこへ行くぞ。妾もこの匂いには敵わぬ」
クロードは一瞬、言葉に詰まった。ティオの名を聞くたび、胸の奥に残る気まずさがちくりと刺さる。
「……そうか」
短く応じると、追い立てられるようにして腰を上げた。
木々に隠れるように湧く小さな湯だまりは、確かに聞いていた通りだった。ほのかな硫黄の匂いとともに、白い湯気が静かに立ち昇っている。
「よし、入るぞ」
言うが早いか、マオは当然のように服へ手をかけた。
「……ちょっと待て」
慌てて止めると、マオは不思議そうな顔で振り返った。
「なんじゃ」
「一緒に入る気か?」
「当然であろう。何をいちいち聞く」
「いや、いちいち聞くというか……」
クロードはこめかみを押さえた。
「慎みくらい持て。子供に欲情するつもりはないが、それとこれとは話が別だ」
「子供?」
マオは心外だとばかりに眉をひそめた。
「妾は大人じゃ。何をわけのわからぬことを言っておる。まぁ、人間の目には子供に見えるようじゃが……いちいち訂正するのも面倒で放っておるだけじゃ」
その発言に、クロードは一瞬言葉を失った。
(本気で言ってるのか……?)
これまで当然のように寝台を共にしてきた。「相手は子供だから」という無意識の前提が、根本から揺らぐ。
(本当に大人だったとしたら……それはそれで、色々まずいんじゃないか?)
もしこの見た目で真面目に「大人の女性」なのだとしたら、一緒に風呂に入るのは倫理的にもアウトだろう。思わぬ方向へ思考が脱線し、急速に焦りが募る。
(大人の、女性……)
その言葉の響きに、脳裏の奥底で鈍い痛みが走った。かつて信じていた女性に深く傷つけられた過去の記憶が、否応なく蘇りそうになる。
――だが次の瞬間。
「どれ」と無造作に湯に足を浸し、熱さに「ひゃうっ!?」と情けない声を上げて跳ね起きるマオの姿が目に入った。
(……いや、ないな)
暗い過去の影は、一瞬で吹き飛んだ。
目の前にいるのはマオだ。憎まれ口ばかり叩いて、料理は生煮え、洗濯もろくにできず、拷問すら失敗したあげく、自分を生き返らせると息巻いていたあのポンコツだ。大人だろうが子供だろうが、こいつが他人を言葉で弄び、罠に嵌めるような真似をする姿など、どうしても想像がつかなかった。
「……お前、仮に大人だとして、異性と一緒に風呂に入るのがどういうことか分かって言ってるのか?」
クロードが姿勢を正して問い詰めると、マオは首を傾げ、心底理解できないというように目を瞬かせた。
「異性?」
呆れたようにため息をつく。
「お主と妾は、魔族と人間じゃぞ? 種族が違えば、オスもメスも関係なかろう。お主は、道端の犬や馬を相手に異性として意識するのか? それと同じじゃ。そもそも妾にとって、お主はせいぜい『父の仇』であり『世話の焼けるペット』に過ぎん。異性として意識する道理がどこにあろうか」
「……」
身も蓋もない言い草だった。だが、あまりにも理路整然とした魔族の価値観に、クロードは返す言葉を失った。マオにとって、人間であるクロードは異性以前に「別種族の生き物」なのだ。だからこそ、恥じらいも何もなく平然としていられる。
「……好きにしろ」
小さく呟くと、クロードは溜め息まじりに服を脱ぎ、背を向けて少し離れた場所で湯に浸かった。
ふと思いついたように、クロードは口を開いた。
「……そういえばその姿、解かなくていいのか。誰も見てないし」
「別に、解く理由もなかろう」
背後から、事もなげな声が返ってくる。
「一度かけてしまえば特に意識せずとも保っていられる程度の慣れた術じゃ。……まあ、もっと複雑な術に気を割く時はそうもいかぬがな」
「複雑な術?」
「たとえば結界を編むような時じゃ。あれは集中せねば形にならぬ。片手間にできるようなものではない」
そう言って、マオも今度はそろそろと湯に足を踏み入れた。
「ほう、これはなかなか悪くないのう」
湯の心地よさに、思わず顔をほころばせるマオの声が響いた。
「……そうだな」
クロードもまた、静かに目を閉じた。身体の芯に溜まっていた重い疲労と冷えが、温かい湯の中にじんわりと溶け出していく。
ふと、湯をかき分ける小さな水音が近づき、クロードのすぐ隣でぴたりと止まった。
種族の違いゆえに異性として意識されていないとは分かっていても、直前に「大人」だと主張され、「仮に大人だったら……」と思案した記憶が頭をよぎる。意識するまいと努めれば努めるほど、正面から振り返る度胸がなくなり、クロードは視線を明後日の方向へ向けたままガチガチに固まった。
そんなクロードのぎこちない横顔を、マオは不思議そうに覗き込んでくる。
「……なんじゃ、その面は」
「別に。お前が勝手に寄ってきたんだろ」
「ぬかせ。湯が一番温かい場所を探したらここだっただけじゃ」
そう言って、マオは当然のような顔で湯の中に肩まで沈んだ。
その拍子に、水面から覗く首元で何かが小さく光った。マオはそれに気づくと指先でそっと石を摘み、湯から出るか出ないかの位置まで持ち上げた。長年の癖のような、無意識の仕草だった。
「……それ、何だ」
視線が吸い寄せられるようにそちらへ向く。小さな装飾の施された黒い石が紐で結わえられ、指先に摘まれていた。
聞かれたマオは一瞬だけ表情を硬くした。
「……妾にとって、大事なものじゃ。それだけ知っておればよい」
短くそう言うと、それ以上の追及を許さないような声で、静かに湯の中で身じろぎした。
クロードはそれ以上聞くのをやめた。何かを深く抱えているのだろう、ということだけは伝わってきた。
湯けむりの向こうで揺れる静かな水面を眺めながら、二人はそれ以上何も語らず、ただ穏やかな湯の温もりに身を委ねていた。




