遅れる影
この日は、朝から空が薄かった。
雨は降っていないのに、地面だけが少し濡れて見える。
「事件のにおいがする…」
事務所の窓を開けた瞬間、早瀬ゆいはそう言った。
「ただの湿気だろ」
窓辺で丸くなったまま、クロが返す。
「違うってば。こういう日は絶対なにか起きるの」
(その確信はどこから来るんだ)
クロは小さくため息をついた。
依頼が来たのは昼過ぎだった。
「影が、遅れてついてくるんです」
駅前で働く男は、困った顔で言った。
「遅れる?」
ゆいが身を乗り出す。
「歩いていると、自分の影だけ少し後からついてくるんです」
「かなり事件です!」
「言うと思った」
クロが即答する。
現場の商店街は、いつも通りだった。
人通りもある。
店先の音楽も、夕飯の匂いも、何も変わらない。
ただ、一つだけおかしい。
影が、ほんの少し遅れている。
一歩。半歩。
時々、止まる。
ゆいはしゃがみ込み、じっと地面を見る。
「カメラのせいとかじゃないんですか?」
「違うんです。ずっとこうなんです」
男は不安そうに首を振った。
クロは黙って地面を見ていた。
しばらくして、小さく言う。
「……ズレてるな」
「何が?」
「影じゃない」
クロは空を見上げた。
「見る側だ」
そのときだった。
「まあ、まだ軽い方ですね、それ」
後ろから声がした。
ゆいが振り返る。
榊が立っていた。
相変わらず、人混みの中でも妙に目立つ。
ラフな格好なのに、なぜか絵になる。
しかも本人は、それを気にした様子もない。
「軽い?」
ゆいが聞き返す。
榊は影を見ながら、少しだけ肩をすくめた。
「この辺だと、“こういうズレ”はたまにありますよ」
言い方が軽い。
まるで、今日の天気でも話しているみたいだった。
クロの耳がわずかに動く。
「普通に言うな、それ」
榊は軽く笑う。
「隠すほどのものでもないですし」
ゆいは首をかしげた。
「じゃあこれは何なんですか?」
榊は少しだけ間を置く。
その間が自然すぎて、わざとらしさがない。
「影の方が、少しだけ先に世界を見てるだけです」
「先?」
クロが低く言う。
榊はクロを見る。
軽く目を細めるだけで、挑発ではない。
「人はいつも、少し遅れて理解するので」
ゆいは目を瞬かせた。
「じゃあ、影の方が正しいんですか?」
榊は小さく笑った。
「“正しい”って言い方は、あまり好きじゃないですけど」
「近いのは、そっちですね」
クロは地面を見たまま言う。
「お前は、それを知ってる口ぶりだな」
榊が一瞬だけ止まる。
けれど、すぐにいつもの調子で笑った。
「知ってるというより、慣れてるだけですよ」
軽い返事だった。
でも、曖昧にはしない。
榊はゆいを見る。
「早瀬さんは、ちゃんと拾えてる側ですね」
「何を?」
榊は少しだけ考える。
「呼ばれてるものを、です」
ゆいは少し戸惑う。
「それ、褒めてます?」
「もちろん」
榊は即答した。
その返事が妙に自然で、ゆいは少しだけ調子が狂う。
クロが短く言う。
「結論は」
榊は影を見たまま答えた。
「まだ途中です」
「でも、悪いものではない」
それだけ言って、軽く手を上げる。
「じゃあ、また」
「え、もう帰るんですか?」
ゆいが慌てて言う。
榊は振り返った。
少しだけ柔らかい顔になる。
「長居すると、こっちもズレるんで」
それから、ゆいを見る。
「またね、早瀬さん」
ゆいが小さく手を振る。
榊は少しだけ目を細め、今度こそ人混みの中へ消えていった。
クロが低く言う。
「……気に入られてるな」
「え?」
「面倒なのに見つかった」
「何それ」
クロは答えなかった。
その沈黙が、逆に答えみたいだった。
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