笑顔と、逃げ道
ここまでお読みいただきありがとうございました。
その日は、少しだけ店が静かすぎた。
境目の見えない雲が空を覆っていた。
ゆいは買い出し。
榊も外。
喫茶店には、相馬とクロだけが残っていた。
カップが一つ、二つ。
それだけの音。
クロは窓際で丸くなっている。
相馬はカウンターで布巾をたたんでいた。
「珍しいですね」
相馬が言う。
「今日は一人ですか」
クロは目を開けない。
「たまたまだ」
少しの沈黙。
カップを拭く音だけが続く。
相馬はふと手を止めた。
「クロさんは、いつも“正しい方”を選びますね」
クロが片目だけ開ける。
「何の話だ」
相馬はそのまま続ける。
「間違っていても、迷わない」
クロは鼻で笑う。
「迷う必要がないだけだ」
相馬は少しだけ微笑む。
「それは、羨ましいですね」
クロは窓の外を見る。
「お前は違うのか」
相馬はすぐに答えない。
少しだけ間を置いてから言う。
「私は、整える側ですから」
クロは短く返す。
「都合いいな」
相馬は否定しない。
むしろ静かにうなずく。
「はい」
その素直さが逆に不気味だった。
クロは目を細める。
「お前、嘘つかないのか」
相馬は一瞬止まる。
そして、困ったように笑う。
「嘘はつきますよ」
「ただ」
「嘘のまま置かないだけです」
クロが黙る。
相馬が新しいカップを置く。
「コーヒー、どうですか」
クロは動かない。
「いらない」
「そうですか」
相馬は引き下げない。
ただ、カップはそこに置かれたまま残る。
まるで“断られても成立している提案”みたいに。
クロが言う。
「お前は人を動かすのが上手い」
相馬は首を横に振る。
「動かしているつもりはありませんよ」
少しだけ間。
「ただ」
「戻しているだけです」
クロが目を細める。
「どこに」
相馬はカップを見つめる。
「本来の位置に」
その言葉が、なぜか少しだけ重かった。
クロは初めて視線を外した。
「お前の“本来”ってやつは、誰が決めてる」
相馬は少しだけ笑う。
「誰も。気づいたら、そうなっているだけです」
クロは短く言う。
「くえないやつだ」
「よく言われます」
少しの沈黙。
窓の外は曇りのまま。
時間だけがゆっくり流れている。
クロがぽつりと言う。
「お前はさ」
「人を安心させるふりして、逃げ道なくしてるだろ」
空気が止まる。
相馬はすぐに答えない。
布巾をたたむ手だけが、ゆっくり動く。
そして言う。
「そう見えるなら」
「たぶん、そうなんでしょうね」
その返事は、肯定でも否定でもなかった。
ただ“受け入れた形”だけがそこにあった。
クロは目を閉じる。
「嫌いじゃないけどな」
相馬は少しだけ目を細める。
「それは嬉しいですね」
クロは小さく言う。
「褒めてない」
相馬は静かに笑う。
「知っています」
カウンターには、冷めかけたコーヒーが一杯。
誰も飲まないまま、それはそこにある。
まるでこの店みたいに。




