橋の途中と、渡らない理由
その日は、どこまでもどんよりとした曇り空だった。
喫茶店の一角にある探偵事務所は、いつも通り静かだった。クロは窓際に座り、ゆいは書類をめくりながら大きな欠伸をする。
「ねえクロ、今日さ。……かなり事件じゃない?」
「まだ何もおきてない」
クロは即答した。ゆいは不満そうに顔を上げる。
「おきてからじゃ遅いじゃん」
「探偵は、おきたあとを見る仕事だ」
「それじゃ間に合わないことだってあるでしょ」
クロはそれには答えず、静かに目を細めた。
カラン、とドアベルが鳴る。
入ってきたのは、やつれた顔の若い男だった。
「あの、探偵さん……ですよね」
「はい! わりと探偵です!」
「わりとって何だ」
クロが小さく呟くのを無視して、ゆいは男を席へ案内した。男は少し迷ってから、重い口を開く。
「同じ橋に、行ってしまうんです。帰り道、別の道を選べばいいって分かってるのに……気づくとその橋に足が向いているんです」
「クセ……とかですか?」
ゆいが尋ねると、男は力なく首を振った。
「違います。……人と、別れた場所なんです。最後に話した場所だから」
男の言葉に、部屋の空気がすっと冷え込む。クロがソファーから下り、静かに言った。
「行ってみるか」
現場は、流れの速い川にかかる小さな歩道橋だった。
古く、どこにでもあるような普通の橋だ。
「……ほんとに、普通の橋だね」
ゆいが呟くと、男は欄干を見つめたままうなずいた。
「そうですね。でも……ここに来ると、足が動かなくなるんです」
男は吸い寄せられるように橋の真ん中へ進み、欄干に手をかけて、そのまま下を覗き込もうとした。
ゆいが息を呑む。
「やめとけ」
クロが橋の手前から、おだやかに声をかけた。責めるでも、慌てるでもない。優しく諭すような低い声だった。
男が弾かれたように顔を上げる。
「お前がそこに立つのは、そうするためじゃねえだろ」
クロの澄んだ黄色い目が、まっすぐに男を射抜いていた。
「お前が毎回止まるのは、真ん中じゃなく『手前から三本目の欄干』だ。そこからだと商店街の時計台が見える。スマホを見りゃ時間はわかる。それでもお前がそこに立つのは、あの時計の針が『あの日別れた時間』に重なるのを、今でもそこで待っちまってるからだろ」
男の手が、ピクリと震えた。
「『渡る』ってのはな、向こう岸に行くことだ。でもお前はそこから一歩も先へ進んでねえ。……お前はただ、そこに立ち止まって、あの日から進めなくなってただけだ」
「あ……」
「立ち止まるためにあるんだよ、そこは。……だけどな、その先を渡っちまったら、もう二度と戻れなくなるぞ」
男は吸い込まれそうな川面とクロの目を交互に見つめていた。
やがて欄干を握りしめていた指からすっと力が抜け、一歩下がると、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
「あの時……あいつの気持ちに気がついていれば……!」
今まで押し殺していた後悔が溢れ出し、男は大声を上げて泣いた。
クロとゆいは何も言わず、ただその横に寄り添い、男が泣き止むのを待った。
風が橋を吹き抜けていく。
川のせせらぎと、男の小さな嗚咽だけが静かに響いていた。空を覆っていた薄雲がゆっくりと東へ流れても、二人は焦かすこともなく、ただそこに佇んでいた。
やがて呼吸が整い、男が顔を上げる。
「立ち止まるだけで……よかったんですね」
そう呟いた男の肩は、憑き物が落ちたようにどこか軽そうだった。
帰り道。ゆいは晴れ始めた空を見上げながら言った。
「ねえクロ。これって、やっぱり事件じゃないの?」
「事件じゃない」
「でも……止めたじゃん」
クロは歩みを緩め、少し間を置いた。
「引っかかってただけだ」
「こういうのってさ、行っちゃった方が楽になるのかな」
「軽くなることもある。……でも、元の場所には二度と戻れない」
ゆいが横を見ると、クロはそれ以上言わず、雲の切れ間をじっと見つめていた。
「……また、来るかな」
「もう大丈夫だろ」
クロの短い答えとともに、ふたつの影が静かに夕暮れの街へ伸びていった。
今日もありがとうございました。読まれているといいな。




