消せない着信と、留守番電話
雨はもう終わりの音がしていた。
喫茶店の窓には、水滴が途中まで流れては止まっている。
ゆいはスマホを見ながら言った。
「今日は通知がこない」
クロは窓際で丸くなったまま答える。
「平和だな」
「いや、来ないと逆に不安なんだけど」
「依存症だ」
カラン。
ドアが開く。入ってきたのは、大学生くらいの女性だった。
傘を閉じる動作が少し遅い。何か深い考え事をしている人の動きだった。
「探偵さんって……」
ゆいがすぐに姿勢を正す。
「はい!」
クロが小さく言う。
「助手だ」
女性は席に座る。スマホを強く握りしめたままだ。
「変な電話が来るんです」
ゆいが尋ねる。
「知らない番号ですか?」
女性は首を振った。
「……元彼です」
クロが目をゆっくりと開ける。
「会える相手か?」
女性は黙り込んだ。
店の前の道路に、薄い夕方の光が戻ってきていた。奥で、コーヒー豆を挽く音だけが静かに響く。
「でも、昨日から電話が来るんです」
女性はスマホの画面を見つめる。
「着信履歴に、彼の名前がちゃんと残ってて……。でも、出ても何も聞こえないんです」
ゆいが少し困った顔をする。
「でも……」
女性がそこで言葉を止めた。クロが静かに聞く。
「嬉しかったか」
女性は顔を上げた。そして、小さく笑った。泣きそうな笑い方だった。
「……はい」
「最低ですよね。もう会えないって分かってたのに……電話が来た瞬間、少しだけ期待しちゃいました」
女性は、消えそうなくらい小さく笑った。
「着信、消してないな」
「え?」
「そいつの番号だ」
女性は深くうなずく。
「消せなくて。……最後のメッセージも、そのままです」
クロはしっぽを一度だけゆらりと動かした。
「お前、昨日その番号に一瞬だけ通知を残したろ」
女性の手がピクリと止まる。
「……押しちゃったんです。もう使われてないって分かってたのに、声が聞きたくて……。一瞬だけ発信ボタンを押して、すぐ切りました」
クロは小さく首を揺らした。
「携帯の番号ってのはな、解約されるとしばらくして別のやつに割り当て直される。お前が昨日ワンギリしたから、向こうの新しい持ち主が『知らない番号だ』と思って折り返してきただけだ」
ゆいが「あ……」と息を呑む。
「お前のスマホにはそいつの名前が登録されたままだから、相手が掛け直した時に『元彼からの着信』に見えた。出ても無言だったのは、お前が動揺して喋らなかったから、向こうも不審に思ってそのまま切ったんだよ」
女性は呆然としていた。
「じゃあ……ただの間違い電話の折り返し……?」
クロはすぐには答えなかった。窓の外を見る。濡れたアスファルトが、空の色を静かに映している。
「そうだな。……だけどな」
静かな、だが優しい声だった。
「お前が昨日、一歩踏み出して電話をかけなきゃ、その着信は鳴らなかった。あいつがかけてきたんじゃない。お前自身が、自分の手で確かめに行ったんだよ」
女性はしばらく黙っていた。
「……そっか」
声にならない息と一緒につぶやいたその顔は、安心したようにも見え、少しだけ寂しそうにも見えた。
相馬が温かいコーヒーをそっと前に置く。
「ですが」
相馬は穏やかに微笑んだ。
「掛け直したくなるほどの思いは、そう簡単に消えるものではありませんよ」
女性は少しだけ目を伏せた。
帰り際。女性はスマホを見ながら、小さく笑った。
「……消せる気は、まだしません」
クロは目を閉じたまま答える。
「別に消さなくていい。消さなくても、お前はもう進める」
女性は一瞬だけ立ち止まり、それから深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
ドアが閉まり、静けさが戻る。
ゆいがぽつりと言った。
「ねえクロ。人って、いなくなった後のほうが近く感じること、あるよね」
クロは小さくあくびをしてから、目を細めた。
「目の前にいるときは『姿』を見ているが、いなくなった後は『思い出』を見るからだ。影のほうが、形がはっきり残ることもある」
窓の外では、夕暮れの街を抜けていく風が、静かに葉を揺らしていた。




