飲み忘れの薬と、足元にある探し物
雨上がり。夕方の光は薄くにじみ、濡れた道をぼんやり照らしていた。
「今日は平和な1日だったね!」
ゆいはいつも通り元気だった。窓際で目を細めていたクロが吐き捨てる。
「その言い方やめろ。フリになる」
相馬が静かにカップを並べながら苦笑した。
「平和はいいことですよ」
カウンター席に座っていた榊が「でも暇すぎると……」と言いかけたその時、店のベルが激しく鳴った。
入ってきたのは、青ざめた顔をした中年の男だった。
「すみません……! ここに、薬を落としませんでしたか!?」
ゆいが首をかしげる。
「薬ですか?」
「朝飲む大事な薬なんです! 袋ごとポケットに入れて持ってきたはずなんですが……どこにもなくて」
男は落ち着かない様子で店内を見回し、ポケットや鞄を何度も探っている。
「ここに来た記憶はあるんです。カウンターでコーヒーを飲んで……それから……ダメだ、動揺して記憶が思い出せない……」
「まあまあ、落ち着いてください」
相馬がお冷を差し出す。男は椅子に腰掛け、着ていた厚手のコートとマフラーを脱いでカウンターの上にドサッと置いた。
ゆいが店内を探すが見つからない。
「やっぱり、どこにもないですよ?」
「そんな……あれがないと困るのに……!」
男が頭を抱えて焦り、カウンターの上に置いたマフラーをガバッと抱え上げた、その瞬間だった。
ポン。
小さな音を立てて、カウンターの上に小さな薬袋がひとつ、転がり出た。
ゆいが目を丸くする。
「えっ!? いま急に現れた!?」
「怪奇現象!?」
狼狽するゆいと男を余所に、ソファーの上のクロが呆れたようにあくびをした。
「怪異でも何でもねえよ」
「え……?」
クロは片目を開け、カウンターを顎で指した。
「最初からそこにあったんだよ。お前が脱いで上に重ねたマフラーの折れ目に、挟まってただけだ」
「あ……」
「薬を無くしたと思って焦るあまり、自分の持ち物に挟まってることすら目に入らなくなってたんだろ。『見たいものしか見えない』ってやつだ」
男はハッとして自分の手元と薬袋を見比べ、それから脱力したように深く息を吐いた。
「……本当だ。私、焦りすぎて……自分がマフラーの下に隠していただけだったんですね……」
幽霊や物忘れの恐怖から解放された男の顔に、一気に安堵の色が広がる。
「よかった……妻に『絶対飲み忘れないでね』って固く言われていた大事な薬だったんです。見つかって本当に良かった……」
男は何度も頭を下げ、薬を愛おしそうにポケットに仕舞うと、晴れやかな顔で店をあとにした。
男が去ったあと、店には再び静けさが戻った。
ゆいは自分の手元を見つめながらポツリと言う。
「目の前にあるのに見えなくなるなんて、人間の目って不思議だね」
榊が温かいコーヒーを傾けながら微笑んだ。
「心に余裕がないと、大切なものほど見えなくなってしまうものですから」
クロは丸くなり、静かに目を閉じた。
「……探す前にお前らの足元見ろ。探し物は大抵そこにある」




