どんぐりと、許嫁
その日は、曇っていた。
喫茶店の窓は薄く白く曇り、外の景色をぼんやり滲ませている。
榊はカウンター席で、コーヒー豆を指先で転がしていた。
「いや〜、今日は暇ですねえ」
誰に向けるでもない軽い声。
クロは窓際で目を細める。
「お前はいつも暇だろ」
「ひどいなあ」
榊は笑って肩をすくめた。
そのやりとりも、もういつも通りだった。
ゆいと相馬は今日はいない。
カラン。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、小さな女の子だった。
店に入るなり、榊を見つけて顔を明るくする。
「来たよ、彼氏さん!」
空気が止まった。
クロが即座に言う。
「お前……最低だな」
「待って待って、誤解ですって」
榊は慌てたふりをする。
軽い調子。
いつもの笑い方。
でも、その目だけはちゃんと彼女を見ていた。
女の子は首をかしげる。
「でも助けてくれたでしょ?」
榊は少し考える。
「助けた記憶はありますねえ」
「でも、それが“彼氏”になるのは飛躍じゃない?」
冗談みたいな言い方だった。
女の子は気にした様子もなく、カバンを開ける。
中から出てきたのは、つやつやに磨かれたどんぐりだった。
「これ、お礼」
榊は目を丸くする。
「え、かわいい」
思わず手を伸ばしかけて、途中で止まった。
「……でもこれ、受け取ると責任発生するやつでは?」
クロが鼻で笑う。
「そういうとこだぞ」
女の子は少し困った顔をした。
「でも、約束したよ?」
榊の表情が、ほんの少しだけ静かになる。
けれど次の瞬間には、またいつもの調子に戻っていた。
「約束、ねえ」
榊はどこか遠くを見る。
「僕、あんまり記憶力よくないんですよ」
軽く笑って言う。
でも、女の子は笑わなかった。
「覚えてないの?」
その言葉に、榊は一瞬だけ黙る。
店の中が静かになる。
カップの湯気だけが、ゆっくり揺れていた。
やがて榊は小さく笑った。
それから、
女の子の目線までしゃがむ。
今度は、さっきまでより少しだけ優しい顔だった
「うん。でもね」
「覚えてなくても、“ありがとう”って気持ちは分かるよ」
榊は女の子の頭にやさしく手をのせる。
女の子はぱちりと目を瞬かせる。
それから、少し安心したように笑った。
その瞬間。
空気がわずかに揺れる。
女の子の輪郭が、ほんの少しだけ曖昧になった。
クロが低く言う。
「……狐か」
女の子はこくりとうなずく。
「うん」
榊は驚かなかった。
むしろ、少しだけ嬉しそうに笑う。
「やっぱり」
白い尻尾が、一瞬だけ見えた気がした。
でも次の瞬間には、もう消えている。
女の子はどんぐりをカウンターに置いた。
「ありがとうって言いたかっただけ」
榊はそのどんぐりを見つめる。
それから、静かに頭を下げた。
「どういたしまして」
少し間を置いて、続ける。
「ちゃんと届いてますよ」
女の子は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、それでいいや」
カラン。
ドアベルが鳴る。
外の曇り空の光が、少しだけ店に流れ込んだ。
女の子は振り返らないまま、外へ出ていく。
気配が消えたあと。
クロがぼそっと言う。
「お前、ああいうの多いな」
榊は肩をすくめた。
「人徳ってやつですかねえ」
「違う」
即答だった。
榊は笑う。
軽い笑い方。
でも、その目だけは少し優しかった。
「まあ、覚えてないものも含めて縁ですから」
窓の外は、まだ曇っている。
カウンターの上では、どんぐりがひとつ、小さく転がっていた。




