大事なものと、洗えないお皿
その日の陽射しは、午後になってもやわらかかった。
喫茶店の窓には、傾いた光が細く伸びている。
店の中は静かだった。
相馬はカウンターの奥。
榊は雑誌を読んでいる。
クロは窓際。
ゆいはクリームソーダを両手で持っていた。
「なんか今日、眠くなる空気だね」
クロが目を細めたまま答える。
「陽があったかいからな」
「猫って晴れの日、ずっと寝てるイメージある」
「寝るぞ。日向がある日は特にな」
カラン。
ドアが開く。
入ってきたのは、六十代くらいの男性だった。
きちんとした服装。
でも、少し疲れた顔をしている。
「……相談、いいですか」
ゆいが姿勢を正す。
「はい!」
クロが小さく言う。
「助手だ」
男性は苦く笑った。
「いいコンビですね」
「ただの腐れ縁だ」
「猫なのに?」
「猫だからだ」
少しだけ空気が緩む。
男性は席につくと、ゆっくり話し始めた。
「家の食洗機が、おかしいんです」
ゆいが首をかしげる。
「食洗機?」
「毎晩、一枚だけ洗えてない皿があるんです」
静かになる。
「毎回?」
男性はうなずく。
「必ず同じ皿です」
「ちゃんと入れてるんですが」
「朝になると、その皿だけ汚れが残ってる」
クロが聞く。
「壊れてるんじゃないのか」
「修理は呼びました」
「異常なしだそうです」
男性は少し笑った。
「でも、毎日なんですよ」
「まるで、洗いたくないみたいに」
ゆいが少し困った顔をする。
「その皿って、何か特別なんですか?」
男性は答えるまで少し時間がかかった。
「……妻の皿でした」
雑誌をめくる音だけが聞こえる
「それから、ずっと同じ皿を使ってるんです」
「片づけるのが嫌な気がして」
相馬が静かにコーヒーを置く。
男性は続けた。
「でも、毎朝その皿だけ洗えてない」
「なんだか……」
そこで少し笑う。
「怒られてる気がして」
ゆいが小さく黙る。
クロはテーブルの上に飛び乗った。
「皿どこに置いてる」
「え?」
「食洗機の中だ」
男性は少し考える。
「……一番奥?ですね」
「割れたら嫌なので」
クロは短く言う。
「じゃあ洗えない」
ゆいが止まる。
「え?」
クロは続ける。
「水流が届きにくい場所だ」
「しかも深皿だろ」
男性の目が少し開く。
「……そうです」
「妻がよく使ってたスープ皿で」
クロは目を閉じる。
「機械は壊れてない」
「お前が、丁寧に避けてる」
静かだった。
男性は何も言わない。
窓の外で、雨が少し強くなる。
クロがぽつりと言う。
「壊したくないんだろ」
その一言で。
男性の表情が少し崩れた。
「……ああ。…ああ。」
小さな声だった。
「そうかもしれません」
「毎回、一番安全な場所に置いてました」
「無意識に」
榊が雑誌を閉じながら言う。
「大事なものって、しまい込みすぎると届かなくなりますよ?」
男性が苦く笑う。
「耳が痛いな」
相馬が静かに言う。
「でも、残している時点で、ちゃんと大事にしてますよ」
湯気がゆっくり揺れる。
しばらくして。
男性はぽつりと言った。
「妻、よく怒ってたんです」
「“すぐ食器ためる”って」
ゆいが少し笑う。
「優しい怒り方ですね」
男性も笑った。
「怖かったですよ」
「でも、静かになってから分かるんですね」
「怒ってくれる人がいるの、ありがたかったんだなって」
帰り際。
男性は小さく頭を下げた。
「今日は、ちゃんと洗える場所に置いてみます」
クロは短く返す。
「そうしろ」
ドアが閉まる。
隙間から見えた空が少し橙色になっていた。
ゆいがぽつりと言う。
「大事すぎると、触れなくなるんだね」
クロは窓の外を見る。
「人間は、なくした後のほうが丁寧になる」
「でも遅いんだ」
静かな声だった。
カウンターの奥で。
相馬が洗った皿を、静かに棚へ戻していた。




