青いコップと、増えない家族
雨の日の喫茶店は、少しだけゆっくり時間が流れる気がした。
窓を流れる水滴を眺めながら、早瀬ゆいはストローをくるくる回していた。
「これはかなり暇です」
「平和ってことだろ」
向かいで丸まったまま、クロが答える。
「暇のあとには事件が来るんだよ」
「来なくていい」
そのとき、店のベルが鳴った。入ってきた男は、傘を持つ手が落ち着かず、何度も持ち替えていた。
相馬がタオルを差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
男は深く頭を下げてから、ゆいたちの席に座った。
少し迷って、小さな声で言う。
「家族に、無視されているんです」
ゆいが顔を上げた。
「無視?」
「ええ。妻と娘が、私の話を聞いてくれなくて」
「かなりひどいです」
「いや……正確には」
男は俯く。
「“あの子”の話だけ、聞こえないふりをするんです」
クロが本を閉じた。
「あの子?」
「息子です」
男は即答した。
「うちには、もう一人息子がいるんです」
窓の外で、雨が少し強くなる。
「でも妻は、“そんな子はいない”って言うんですよ」
男は困ったように笑った。
「娘まで合わせるようになってしまって」
ゆいが立ち上がる。
「これはかなり事件です!」
「まだ何も起きてない」
クロに袖を引かれて座り直す。
「写真とか?」
ゆいが聞く。男は少し考えてから、首を振った。
「一枚だけ……他には見つからないんです。でも、本当にいたんですよ」
その言い方は、まるで昨日まで一緒に暮らしていたみたいだった。
午後。ゆいたちは男の家を訪ねた。
静かな住宅街だった。
庭先には、小さな青い傘が立てかけてある。ゆいが小声で言う。
「四人家族だ」
「たまたまだろ」
クロはそう言ったが、傘はきれいで、使われていないように見えた。
出てきた妻は、少し疲れた顔をしていた。けれど優しそうな人だった。
「最近、ああなんです」
困ったように笑う。
「昔の話と今の話が混ざることがあって」
「でも、息子さんはいないんですよね?」
ゆいが聞く。
妻は静かに頷いた。
「娘だけです」
その後ろで、娘が気まずそうに立っている。
高校生くらいだった。家の中には、三人分の生活があった。けれど時々、妙な違和感がある。
食器棚の奥に、小さな青いマグカップ。洗面所には、子供用の歯ブラシ。
リビングには、少し小さなスリッパ。
どれも新しい。ゆいが囁く。
「かなりいる感じする……」
「お前は雰囲気で事件にするな」
そのとき、妻が小さく言った。
「……あれ、主人が買ってくるんです」
「え?」
「気づくと増えてるんです。コップとか、スプーンとか
妻は少し笑った。困ったような、寂しいような笑い方だった。
「“あの子、これ好きそうだな”って」
静かな雨音が続く。
「捨てればいいのにって、何回も思いました」
妻は食器棚を見る。
「でも、なくなると……すごく悲しそうな顔するから」
誰もすぐには喋れなかった。娘がぽつりと言う
「最初は気持ち悪いなって思ってて」
俯いたまま続ける。
「でも、お父さん……その話してるときだけ、ちょっと楽しそうで」
クロが静かに家の中を見回した。
その視線が、棚の写真立てで止まる。古い写真だった。
男とよく似た子供が一人。
「これ」
クロが言う。妻が少し目を細めた。
「主人の弟です」
「亡くなったんです。小さいころに」
雨が、窓をゆっくり流れていく。
「最近なんです。あの写真をたまたま見つけて」
妻が小さく言った。
「“弟”じゃなくて、“息子”って言うようになったの」
娘が写真を見つめる。
「でも、なんか……誰も強く否定できなくて」
そのとき。窓の外を、白いカラスが横切った。
電柱に止まり、こちらを見る。
——よにん。
ゆいが固まる。
「今しゃべった!」
「鳥はだいたいそう聞こえる」
「絶対適当!」
でもクロは、珍しく真面目な顔でカラスを見ていた。
帰り際。三人が玄関外まで見送りに来た。
「ありがとうございました」
男は最初より、少し穏やかな顔をしている。
ふと、父親が笑った。
「変ですよね」
「何が?」
ゆいが聞く。
男は少し考えてから言う。
「弟なのに」
雨の外を見る。
「もう少し長く家族でいたかったんです……」
雨はもう小降りになっていた。
ゆいが傘を揺らす。
「結局、息子はいなかったんだね」
クロは少し考える。
「どうだろうな」
「え?」
クロは濡れた道路を見たまま言った。
「いなくなったって言われても、そう簡単に納得できるもんじゃない」
ゆいは首を傾げる。
「誰が?」
クロは答えなかった。
その横を、白いカラスが低く飛んでいく。
濡れた道路には、一瞬だけ。四人分の影が、並んで見えた。
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