思い出の記憶と、窓の外を横切る人
晴れた日の午後は、影だけがゆっくり動く。
風はあるのに、洗濯物はあまり揺れていなかった。
喫茶店の窓際で、ゆいは通りを眺めている。
「晴れてる日のほうが、ぼーっとしてる人多いよね」
「お前もその一人だろ」
クロは椅子の上で丸くなったまま答えた。
「暑いから下向いてるだけだ」
そのとき、店のベルが鳴った。
入ってきたのは老夫婦だった。二人とも、どこか同じ歩き方をしている。
相馬が水を置くと、夫のほうが困った顔で言った。
「相談ってほどじゃないんですが……最近、決まった時間になると部屋の窓の外を誰かが横切るんです」
「うちはマンションの二階だから、人が通るはずないんだけど……外を見ても誰もいないんですよ」
今度は妻が不安そうに付け加える。
クロが片目を開けて尋ねた。
「見間違いじゃなくて?」
老夫婦は顔を見合わせた。
「それが、二人とも見てるんです。わしには、帽子の男に見えて……」
「私は、白い服の女の人に見えるんです」
静かな間。ゆいたちは、老夫婦の自宅へ向かうことになった。
町の中に建つ、まだ新しいマンションの二階。
窓の前には、小さなテーブルが置かれていた。
「ここで毎日、二人でお茶を飲むんです」
妻が笑う。窓の下には車の往来が多い道があり、向かい側にはガラス張りの建物が立っていた。
部屋の時計の針が午後6時15分をまわった、その瞬間。
窓の外を、すっと黒い影が横切った。
「あ……!」
ゆいが声を上げる。だが、外には誰もいない。
クロは窓の近くへ行き、外の通りと向かいの建物を静かに見比べた。
「……反射だな」
「反射?」
「向かいのビルのガラスに、下を歩く人の影が映ってんだよ。西日の角度で、この窓ガラスに二重に投影されてるだけだ」
夫がハッとしたように言った。
「じゃあ……幽霊じゃなくて、ただの通りすがりの人の影ですか」
「ああ。ただの光の悪戯だ」
クロはソファーの背もたれから老夫婦を見下ろし、言葉を続けた。
「だが、影自体はただの曖昧な黒い形だ。なんで一人は『帽子の男』に見えて、もう一人は『白い服の女の人』に見えたと思う?」
老夫婦は顔を見合わせる。
「人間の脳はな、はっきり見えない影を見た時、自分の記憶にある『見知った形』に勝手に補正するんだよ。……お前ら、心当たりあるだろ」
二人は息を呑み、それからどちらからともなく小さく笑い出した。
「そういえば……わしが昔、よくかぶっていた帽子に似ておったな」
「私は……昔、近所に住んでいた親切なお姉さんの服に似ていると思っていました」
ただの不気味な影だと思っていたものは、お互いが長年大切にしてきた「昔の温かい思い出の記憶」が映し出した幻だったのだ。
ゆいが窓の外を見つめながら、優しく微笑む。
「不気味な影じゃなくて、お二人の思い出が挨拶しに来てくれたみたいですね」
「ええ……なんだか、久しぶりに古い友達に会えた気分です」
妻は嬉しそうに目を細めた。
帰り道。夕方の光が、道路を長く照らしていた。
ゆいが歩きながら言う。
「クロ」
「ん?」
「さっき、最後にもう一回横切ったよね」
クロは少し黙ってから、そっぽを向いた。
「……気のせいじゃないか」
その横を、白い猫がゆっくり通り過ぎていった。
でも今度は、ちゃんと小さな足音が響いていた。




