狐の嫁入りと葬送の香
窓から差し込む陽光がやわらかく床を照らす、実に穏やかな晴れの日だった。
喫茶店のカウンターでは、相馬が、常連客のために冷やしカステラを丁寧に切り分けていた。
「今日のような晴れた日は、空気が澄んでいて気持ちが良いですね」
「はい! 相馬さん、とっても平和な一日になりそうですね!」
ゆいが嬉しそうにカステラを受け取ったその時、チリンとドアベルが鳴り、一人の若い女性が飛び込んできた。
「助けてください……!」
青ざめた顔をした女性は、息を切らせてドアにすがりついている。上質なブラウスは少し乱れ、その瞳には深い不安と恐怖の色がにじんでいた。
「一ヶ月前に亡くなった、恩師の先生の空き家なんです。……誰もいないはずなのに、お仏壇から、お線香の煙と匂いが立ち上るんです」
ゆいが驚き、身を乗り出す。
「誰もあげてない線香の匂い……!? もしかして、幽霊ですか!?」
隣で榊が、いつもの穏やかな昼の笑顔でなだめるように微笑んだ。
「おそらく、お部屋の換気口から外の匂いが流れ込んでいるか、古い木材の香りがお線香に似ているのでしょう。人間は不安な時ほど、五感が敏感になりますから」
名推理を先に言われてしまったキジトラ猫のクロは、やれやれという表情でクッションに深く座り直すと、榊につんと背中を向けた。
「違うんです。外からの匂いとかじゃなくて、なんていうか……空気に直接、記憶が漂っているような……」
女性の切実な訴えに、ゆい、クロ、榊の3人は、彼女と共に「先生」の空き家へと向かうことになった。
到着した空き家は、晴れ渡る日差しが窓から斜めに差し込む、静かな木造平屋だった。
「あとは、お任せしますね。僕は少し、お庭の周りを見てきます」
榊はそう言って、一人で裏手へと回った。残された3人と一匹は、ひんやりとした玄関の引き戸を開けて家の中へと入る。
誰も住まなくなって久しい室内は、どこか時間の止まったような静けさに包まれていた。
廊下に敷かれたフローリングにはうっすらと埃が積もり、差し込む陽光の中で、細かい塵がゆらゆらと踊っている。かつて生活の気配があったリビングの家具には白い布がかけられ、その中央に、どこか寂しげに仏壇だけがぽつんと佇んでいた。
クロが仏壇の周りをクンクンと鼻を鳴らして調べ、ゆいが別の部屋を見て回る。そこへ、調査を終えた榊が戻ってきた。
「やっぱり、僕の思った通りでした。すぐ裏手にある寺院でお線香を焚いていて、その香りが風の悪戯でこの部屋に届いていたみたいです」
「そんな……。私が気に病みすぎて、思い込んでいただけだったのね……」
女性は安堵の裏に、わずかな寂しさを残した複雑な微笑みを漏らした。
生前、不器用さゆえに先生に冷たく当たってしまったのではないか、もっと何かできたのではないか――そんな終わりのない自責の念が、彼女の心をずっと縛り付けていたのだ。お互いに特別な信頼を抱いていたはずなのに、最後のお別れの時、ちゃんと言葉を交わせなかった後悔が、彼女を余計に苦しめていた。
誰もが『晴れの日の思い込み』という科学的な結論に納得した、その瞬間だった。
ポツリ……ポツリ……。
雲一つない青空のまま、窓の外で突然の雨が降り始めた。
天気雨――俗に言う「狐の嫁入り」だ。雨脚はあっという間に強まり、激しい大雨となって世界を白く煙らせていく。
その時、閉め切られた部屋の中で、消えていたはずの仏壇の線香立てから、真っ白な煙が太く、立ち上った。同時に、紫陽花のような、甘く洗練された香りが部屋いっぱいに満ちていく。
榊が驚愕して目を見開いた。その金色の瞳が、あやかしの鋭さを帯びる。
「外の寺院の匂いではない……! 火の気(がないのに、なぜ煙が……!?」
クロが仏壇の前にすっと立ち、静かに告げた。
「……おい榊、今日はただの思い込みじゃねえぞ」
白い煙は部屋の中で優しくゆらめき、まるで生きているかのように、女性の震える肩をそっと包み込むように広がっていった。
女性の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「この匂い……お線香じゃないわ。先生がいつも好んでつけていた、お気に入りの香水の香りだわ……。先生、本当に私に会いに来てくれたの……?」
クロは目を細め、不器用な優しさをその声に滲ませた。
「そのじいさんは、お前に怒ってなんかねえよ。『自分を責めずに、自分の決めた道をまっすぐ歩みなさい』ってさ。お前を泣かせるためじゃなく、笑顔にするために、最後の葬送の香りを届けに来たんだ」
女性は激しく泣き崩れながら、仏壇に深く手を合わせ、恩師への心からの感謝を捧げた。その瞬間、香水の残り香は彼女の涙を拭うようにして、すっと優しく消えていった。。




