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壁の写真と、悲しみを追い払う猫

その日は、朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。


喫茶店兼、探偵事務所の扉を叩いたのは、近所に住む高齢の女性だった。


ゆいが温かいお茶を差し出すと、女性は震える手でカップを包み込み、申し訳なさそうに切り出した。


「実は……うちにいる白い猫の『シロ』のことで、ご相談がありまして」


ゆいは首をかしげる。

「猫ちゃんの相談ですか? 体調が悪いとか……?」


「いいえ。身体は元気なんです。ただ……数日前から、リビングの誰もいない壁に向かって、毛を逆立てて威嚇するようになりまして」


言葉を詰まらせ、静かに続けた。


「まるで……そこに誰かが立っているのを見ているみたいに」


()()が、ですか」


ゆいは少し笑ってみせた。


「猫ちゃんって、時々誰もいない場所をじっと見つめたりしますよね。光の反射とか、小虫が見えてるだけじゃないですか?」


「私も最初はそう思ったんです。でも……あの子、泣くような声で威嚇するんです。まるで、何かを必死に遠ざけようとしているみたいに……」


クロは窓際でじっと雨を見つめていたが、ゆっくりと耳を女性の方へ向けた。


「行ってみるか」


クロの一言で、3人は自宅へ向かうことになった。



家は、古いけれど綺麗に整頓された一軒家だった。

ただ、どこか人の気配が薄く、しんと静まり返っている。


部屋に入ると、真っ白な毛並みの猫が、部屋の隅にある古い木製のチェストに向かって、低い声で威嚇していた。


「シャーッ……!」


背中を丸め、耳を伏せ、全身の毛を逆立てている。


ゆいはチェストの周りを見渡した。


「やっぱり何もないよ? 埃も落ちてないし……」


チェストの上には、小さな写真立てが二つ並んでいた。


一つは数前に亡くなったというご主人の写真。


もう一つは——若い男性の写真だった。


女性は写真を愛おしそうになでながら、ぽつりと言った。


「息子の写真です。もう二十年以上……連絡が取れていなくて。生きているのか、どこで何をしているのかも分かりません」


「この家には、私とシロしかいません。だから時々、考えてしまうんです。もしあの子が、どこかでひもじい思いをしていたら。もしもう、この世にいなかったら……って。そんなことを考えると、胸がぎゅっと苦しくなって、部屋から出られなくなってしまうんです」


「……」


ゆいが言葉を詰まらせた、その時だった。


クロが静かに歩み出で、シロとチェストの間に割って入った。


クロはシロを押し返すでもなく、ただその場にどっかと座り込む。

そして、女性をまっすぐに見上げた。


「何かが見えてんのは、猫じゃねえ」


クロの低い声が、静かな部屋に響く。


女性はハッとして立ち尽くした。


「クロ……? どういうこと?」ゆいが尋ねる。


クロは女性から目を逸らさずに言った。


「猫はな、そこに何かがあるから怒ってんじゃない」

「お前が毎日、そこに置いてる『悲しみ』から、お前を守ろうとしてんだよ」


「え……?」


「その猫には見えてんだよ。お前がその写真を見るたびに、自分を責めて、暗い影をまとっていく姿がな」


クロはシロの方をチラリと見た。

シロは威嚇をやめ、切ない声で「ニャァ」と短く鳴いた。そのまま女性の足元に寄り添い、すりすりと頭を擦り付けてくる。


「お前が過去に囚われて暗い顔をするたび、この猫は『お前を苦しめる何か』がそこにいると思って、必死に追い払おうとしてたんだ」


「シロ……が……?」


女性目から、ぽろぽろと大きな涙が溢れ出した。


「私……私、あの子がいなくなってからずっと、自分だけが幸せになっちゃいけないと思って……ずっと、悲しいフリをして……っ」


その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、シロをギュッと抱きしめた。


「ごめんね、シロ……ごめんね……! 守ってくれようとしてたのね……私を守ろうとして……っ」


シロは女性の頬の涙を、ざらざらした舌で優しく舐めた。もう一度シロをギュッと抱きしめると、その顔にはどこかすっきりとした、温かい笑顔を浮かべていた。


「探偵さん、ありがとうございました。私……明日、警察に相談に行ってみようと思います。息子のこと、ずっと怖くて探せなかったけれど……ちゃんと向き合ってみます」


シロが満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。

もう、チェストに向かって威嚇する様子はどこにもない。



事務所への帰り道。


雨はすっかり上がり、雲の隙間からやわらかな夕日差し込んでいた。


ゆいは空を見上げながら、ぽつりと言った。


「ねえクロ。シロには本当に何かが見えてたのかな」


クロは前を向いたまま、素っ気なく答える。


「見えてたのは()()じゃねえ」


「じゃあ、何が見えてたの?」


クロは少しだけ立ち止まり、振り返らずに言った。


「あいつを愛してる飼い主の、本当の顔だ」


ゆいは一瞬驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。


「そっか。……うん、そうだね!」


ふたりの影が、夕暮れの街並みに長々と伸びていった。

読んでいただきありがとうございました

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