濡れない傘と、雨の日の相合い傘
その日、雨は昼過ぎから降り始めた。
強くはない。ただ、町を静かに閉じ込めるような雨だった。
喫茶店の窓には、細い雨粒が流れている。
ゆいは窓際でぼんやりと外を見ていた。
「雨の日って、みんな歩くの遅くなるよね」
クロは椅子の上で丸くなったまま答える。
「傘が邪魔だからだろ」
「でも、急いでる人もいるよ?」
「急いでるやつほど濡れてる」
そのとき、カランとドアベルが鳴った。
入ってきたのは、スーツ姿の若い会社員の男だった。
肩まわりは少し濡れている。だが、手に持った紺色の折りたたみ傘だけは、一滴も濡れていなかった。
「もしかして……幽霊!?」
ゆいが目を丸くする。
「……お前なぁ」
クロが静かに頭を抱え、榊がコーヒーを淹れながら微笑む。
「あるあるすぎて否定できないのが困りますねえ」
男は少し困ったように苦笑いした。
「あの、相談なんですが……いいですか」
クロが片目を開けて頷く。
男は席に座り、足元に傘を立てかけた。やはり、濡れた形跡がまったくない。
「最近、この傘だけ濡れないんです。雨の日にしっかり使っているのに、会社や家につく頃にはもう乾いていて」
「新品か?」
「違います。半年前からずっと使っている傘です。それに……」
男は少し迷うように言葉を濁した。
「最近、街を歩いていると誰かとぶつかりそうになるんです。今日も駅前で、急に周りの人が僕を避けていって……振り返っても、そこには誰もいなくて」
店の空気がわずかに変わる。
榊が杯を傾けながら言った。
「避けたのは、あなたじゃなくて?」
「違うんです。なんというか……僕の隣に、もう一人分の『見えない隙間』がある感じで」
クロがぼそりと呟く。
「……商店街に行くぞ」
午後。雨は降り続いていた。
商店街の入り口にあるアーケードの傘立てには、似たような紺色の傘が何本か並んでいた。
クロはそのうちの1本の前で足を止める。
「これだな」
「同じ傘?」
ゆいが首をかしげると、クロは短く答えた。
「逆だ。こっちが、お前の元の傘だ」
男が息を呑み、傘の持ち手を見る。そこには、半年前につけた覚えのある小さな傷があった。
「……俺の傷だ。じゃあ、半年前の取り違えから、ずっと……」
「相手は力のない女性だな」
クロが窓の外を顎でしゃくった。
「大きなメンズ傘を大事に深く差していたから、雨に濡れずに済んでいた。逆にお前が差していたのは小さなレディース傘だ。……お前の肩が濡れてたのは、傘がちいさかったからだよ」
「あ……」
「避けてたのもそうだ。お前が無意識に、大きな傘の幅に合わせて歩いていたから、周りが避けてただけだ」
男が呆然としていると、商店街のアーケードからひとりの女性が出てきた。
傘立ての前で足を止め、男と目が合う。
「あ……」
女性は少し驚いたあと、小さく笑った。
「その傘、やっぱりそっちでした?」
「……ずっと、取り違えたままだったんですね」
男が自分の(本当は女性の)傘を見つめると、女性は少し申し訳なさそうに言った。
「私、雨の日はよく転びそうになるんです。だから、その大きくて丈夫な傘がすごく安心で……大切に使わせてもらってました」
「……俺も、この傘のサイズ感が、なぜか落ち着いてました」
沈黙が落ちる。だが、さっきまでとは違う、どこか温かい沈黙だった。
女性が自分の本来の傘を開こうとしたが、骨が一本曲がっていて上手く開かない。
「あ……ごめんなさい、私ドジで……」
困り顔の女性に、男は少し勇気を出して言った。
「あの……駅までなら、入りますか?」
女性は驚いたようにパチクリと目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ……少しだけ」
紺色の大きな傘が、二人の頭上にバサッと広がる。
雨音が、少しだけ遠のいた。
二人は並んで歩き出す。
最初はぎこちなかった歩幅も、駅へ向かう頃には少しずつ揃っていった。
「半年前って、ちょうど梅雨でしたよね」
「そうですね。……あの時からずっと、気づかないふりをしていたのかも」
「ふふ、かもしれませんね」
一つの傘が、静かに雨の街へ消えていく。
喫茶店に戻ると、マスターの相馬があたたかいミルクを用意してくれていた。
ゆいがカップを両手で包みながらポツリと言った。
「結局、幽霊じゃなかった」
クロはソファーで丸くなり、窓の外を見つめたまま答える。
「長年使うものには、持ち主の癖が残るってだけだ」
「フフ、誰かと一緒に歩くために、その『隙間』が残っていたのかもしれませんね」
榊が穏やかに笑う。
外の雨はいつの間にか、やさしい小雨に変わっていた。
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