行くな、乗るな。
今日の雨は静かだった。
静かすぎて、街の輪郭だけが少し遠くにずれているようだった。
喫茶店の朝は静かだった。
雨はまだ止まず、窓の外の世界だけが少し遠い。
「今日はお客さんくるかな」
ゆいがぽつりと言った。
クロは目を開けずに答える。
「さあな」
ゆいは少しだけクロを見る。
「クロってさ、1日の半分は寝てるよね」
クロはようやく一度だけ瞬きをする。
「俺のは仕事のうちだからな」
ゆいは納得していない顔をする。
「それ、便利すぎない?」
返事はない。
クロはもう静かな寝息をたてている。
そのとき、店のベルが鳴った。
音と一緒に、冷たい空気が入る。
若い女性だった。
どこかで見た気がする顔だった。テレビか、SNSか、はっきりしない。
その“思い出しきれなさ”だけが妙に残る。
「相談、いいですか」
女性はまっすぐ言った。
クロは窓辺から飛び降りイスに座りなおす。
「どうぞ」
椅子に座った女性は、スマートフォンをテーブルに置く。
画面にはSNSのDMが開かれていた。
短い文章。
行くな
乗るな
出るな
「これが、ずっと来るんです」
女性は少し笑ってごまかそうとするが、目が笑っていない。
「週末に、地方でファン感謝デーがあるんです」
「飛行機に乗る距離のところで」
「でも、このメッセージが……ずっと」
ゆいが覗き込む。
「これ、ただの荒らしじゃないんですか?」
言い方がそのまますぎる。
クロがスマホを見る。
「実害は?」
女性は少しだけ黙る。
「まだ、ないです」
「でも、毎回……同じ日に、同じ場所に置いてると、来るんです」
ゆいが首をかしげる。
「同じ日と同じ場所?」
「週末の前の日とか、夜とか。次の日の用意をして
ベッドのそばにスマホを置くとこのメッセージが…」
クロが立ち上がる。
「止めてるんだ」
短く言う。
女性が少し怯えた顔をする。
「止めてる……?」
クロはそれ以上説明しない。
ただ、テーブルを一度見て、外を見る。
雨。
クロが静かに言う。
「そのイベントに行くと何か起きると思っているのか?」
女性は頷く。
「はい」
榊が軽く口を挟む。
「普通に考えたら、やめた方がいいやつですね」
ゆいはまだ納得していない顔をしている。
「でも、それって……ただの脅しじゃ」
クロが遮る。
「違う」
一拍置いて。
「何かが起きる前提で止めてる?」
沈黙。
雨の音が少しだけ強くなる。
クロはようやく言う。
「その“止めているもの”を見に行くか」
これはただのストーカーでも、ただの荒らしでもない。
何かが、起きる前に止められている。
そしてそれが“何なのか”は、まだ誰も知らない。
部屋の中は整っていた。
だがどこか、途中で止まったままの空気がある。
ゆいは最初にそれを感じた。
「……ここ、ちょっと変ですね」
榊が周囲を見る。
「どこが?」
「説明できないところ」
クロは玄関の傘立ての前で止まった。
一本の傘。
妙に丁寧に置かれている。
「それ」
クロが言う。
女性が少し戸惑う。
「それは……母がくれた傘です」
ゆいが反応する。
「お母さん?」
「はい。3年前家を出てずっと会ってません」
女性は少しだけ視線を落とす。
「連絡も…」
空気が少し変わる。
雨の音が近くなる。
「家を出て、この仕事をはじめました」
「売れるまで帰らないって決めて……」
「でも、今年も多分ダメかもしれない」
女性は少しうつむき、玄関に置かれた傘見た。
「どうしていいかわからないんです。あのDMが来ると……行くのが怖くなる」
彼女はそっと息を吐き出す。
「あの、この傘、使ってないんです。置いておくだけで、
なんだか母が見守ってくれている気がして」
クロが傘を見たまま言う。
「心配が、残ってる」
ゆいが小さく眉をひそめる。
「残ってる?」
クロは言い直さない。
ただ一度だけ傘を見て、それ以上触れない。
「会わなくても、支えられているということもある」
その言葉に、女性が少しだけ表情を崩す。
ゆいがぽつりと言う。
「じゃあこれ……」
「お母さんの気持ちが、ずっとここにあるってこと?」
クロが短く言う。
「形になってる」
榊が軽く笑う。
「まあ、生霊って言えばそうですけどね」
でも冗談みたいに言っているのに、目は笑っていない。
部屋の中の傘が、少しだけ揺れた気がした。
誰も触れていないのに。
女性が小さく言う。
「……やめてほしいんでしょうか」
クロは首を振る。
「止めてるんじゃない」
「見てるだけだ」
雨が強くなる。
ゆいはようやく気づく。
これは怖いものじゃない。
でも、優しくもない。
ただ、残っているだけだ。
「電話、かけてみたらどうですか?」
ゆいだから言える言葉だった。
コール音。
雨の音と混ざる。
「……はい」
母の声。
女性は息を飲む。
「お母さん……?」
少しの沈黙。
「どうしたの?急に」
普通の声だった。
女性は言葉を探す。
「最近、変なメッセージが来てて」
「行くなって……ずっと」
母の声が止まる。
その一言で、空気が変わる。
クロが小さく言う。
「繋がった」
榊が目を細める。
「現実側ですね」
ゆいはまだ理解が追いついていない。
女性は傘を見る。
もうさっきまでと同じようには見えない。
電話の向こうで母は続ける。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「無理してない?」
その声は、さっきまでの“メッセージ”とは違っていた。
ゆっくりと、雨が弱くなる。
通話が切れる。
沈黙。
クロが静かに言う。
「心配は、形を変えることがある」
榊が小さく笑う。
「一番厄介なやつですね」
ゆいはぽつりと言う。
「じゃあ……さっきのって」
クロが短く言う。
「残像」
女性は小さく頭を下げる。
「すみません……」
ゆいは首を振る。
「謝ることじゃないと思います」
誰もそれ以上説明しない。
雨は止まない。
ただ、さっきより少しだけ軽い。
喫茶店に戻る道で、誰も「解決した」とは言わない。
それでも足取りだけが、少しだけまっすぐになっていた。




