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消えないノイズ

その日は、朝から雨粒の気配だけが先に来ていた。


喫茶店の窓だけが先に明るい。


相馬は片手でコーヒーを淹れている。


前より自然に動くようになっていた。


でも、まだ時々右手をかばう。


「無理してませんか?」


ゆいが聞く。


「してませんよ」


「絶対してる顔です」


クロが窓際から言う。


「相馬は“してません”って言う時が一番してる」


「困りましたね」相馬が小さく笑う


カラン。


ドアが開く。


入ってきたのは、三十代くらいの男性だった。


スーツ姿。


疲れている顔。


でも、“怯えている”というより、

眠れていない人の顔だった。


「あの……ここ、相談って」


「はい!」


ゆいが反応する。


クロは目を閉じたまま。


「今日は喫茶店側だ」


男性は少しだけ笑った。


でもすぐ真顔に戻る。


「変な話なんですけど」


「大丈夫です、慣れてます」


「お前は慣れすぎだ」


男性はスマホを取り出した。


「録音、聞いてもらえますか」


再生。


最初は普通の会議音声だった。


キーボード。


咳払い。


資料をめくる音。


そして。


『――だから、やめた方がいい』


ノイズ混じりの声。


小さい。


でも、はっきり入っている。


ゆいが顔を上げる。


「今の誰ですか?」


「分からないんです」


男性は言う。


「会議室には四人しかいなくて」


「でも誰の声でもない」


クロが聞く。


「毎回入るのか」


「はい」


「しかも」


男性は少し迷う。


「内容が、毎回違うんです」


別の録音を流す。


『その資料、出すな』


さらに別。


『今日、帰るな』


店の空気が少し静かになる。


ゆいが小声で言う。


「怖……」


男性は続ける。


「最初はノイズだと思ってたんです」


「でも、この声が入った日に限って」


「会議が中止になったり」


「機材トラブルが起きたり」


「事故があったりする」


クロが目を開ける。


「録音データ見せろ」


男性はスマホを差し出す。


クロはしばらく画面を見る。


「……変だな」


「え?」


「全部、“会議開始前”に入ってる」


「でも録音は開始後だ」


沈黙。


ゆいが止まる。


「それって……」


「編集じゃない」


クロは言う。


「マイクだな」


その日の夜。


ゆいたちは会社へ向かった。


古いオフィスビル。


問題の会議室。


榊がいた。


「いやあ、やっぱり来てましたか」


ゆいが驚く。


「なんでいるんですか」


「たまたまですよ」


クロが即答する。


「嘘だな」


榊は笑う。


「この建物、音が変なんです」


会議室に入る。


静か。


妙に静かだった。


榊が壁を軽く叩く。


「ここ、昔ラジオ局だったんですよ」


ゆいが目を丸くする。


「え?」


「防音構造が古い」


「だから音が妙に反射する」


クロは天井を見る。


「マイクが拾ってるのは、“今の声”じゃない」


男性が固まる。


「は?」


クロは録音を再生する。


『その資料、出すな』


榊が小さく言う。


「これ、イヤホン越しっぽいですね」


クロが頷く。


「オンライン会議の漏れだ」


「隣の部屋の音声が混線してる」


沈黙。


「でも……事故のことは」


男性が言う。


クロは即答する。


「逆だ」


「お前が勝手に結びつけた」


男性は黙る。


榊が続ける。


「人って、“意味があった”方が安心するんですよ」


「偶然より」


部屋が静かになる。


その時。


クロが机を見る。


「……いや」


「え?」


クロは録音時間を見る。


「一個だけ違う」


全員止まる。


クロが低く言う。


「最後の音声だけ、“まだ起きてない会話”だ」


沈黙。


男性の顔が青くなる。


再生。


ノイズ。


そして。


『……辞めるって、言うんですよね』


男性が固まった。


「これ……」


榊が静かに聞く。


「今日、言われました?」


男性はゆっくりうなずく。


「部下に」


「一時間前に」


部屋の空気が止まる。


ゆいが小さく言う。


「じゃあこれ……」


クロは窓を見る。


「ただのノイズだ」


少し間を置く。


「でも、人間は聞きたいものを拾う」


帰り道。


榊が笑う。


「面白かったですね」


クロは不機嫌そうに言う。


「お前がいると話がややこしい」


「光栄です」


榊は軽く手を振る。


「じゃ、また」


ゆいがその背中を見る。


「榊さんって、なんか変だよね」


クロは目を閉じる。


「変じゃない」


「慣れてるだけだ」


曇った空の向こうで、

遅れていた雨がようやく落ち始めていた。

お読みいただき、ありがとうございました。

また次の話で、お会いできれば。

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